田中吉史のページ/○○論、のようなもの?


吹奏楽と現代音楽についてのちょっとした考察

アジア音楽祭in東京2003 オープニングコンサートから


音楽の楽しみ、とか、音楽の享受、というと、つい音楽を聴くことだけを思い起こしてしまいがちだが、現実には、演奏することの楽しみも、かなり大きなもの といえる。音楽を聴くことを楽しみにする人の数にくらべれば、音楽を演奏することを楽しみにする人の数は少ないだろうけれど、それでも演奏することが音楽 産業における非常に重要な市場の一角を占めていることは疑うべくもない。

ところで、西洋中心の芸術音楽における20世紀の重要な発展は、様々な楽器の発見があると言える。それは単に数々の民族音楽における楽器、様々な打楽器や 新しい楽器の発明だけでなくて、19世紀まではあまり日のあたらなかった様々な楽器が、(多くの場合、優れた演奏家の出現によって)作曲家達の「表現」の 媒体として、その可能性が探究されるようになってきた。こういう言い方をすると語弊はあるが、言ってみれば、アマチュアの趣味的世界や、あるいはオーケス トラの中の周辺領域やその外側に押し込められていた楽器が、芸術表現の媒体として「解放された」のである。

ところが、吹奏楽(ウィンド・オーケストラ)に関しては、こうした状況にあるとはあまり言えないだろうという気がする。もちろん、吹奏楽は個々の楽器では なくアンサンブルであり、単に楽器の世界の出来事と併置してみるわけには行かないだろう。しかしそれでも、吹奏楽の世界を支えるのは、それを演奏すること に活動の重点を置くアマチュア音楽家達であって、吹奏楽のための作品の良し悪しの判断は、その作品の演奏に関する側面からなされることの方がはるかに多 い。演奏しやすいかどうか、ひきばえがするか、あるいは作品が盛り上がるか、と言うことの方が、作品として完成度が高いかとか、その作品がその作曲家の独 自の世界を実現し得ているかとかといったことよりもはるかに重要視される(と思うのは偏見も混じっているかもしれないが)。こうした価値判断は、それを楽 しみのために演奏する立場からすれば、ある意味で自然なことではあるのだが、逆に作曲家の側から、こうした演奏家のための「サービス」を(ある程度)無視 してでも、自分の独自な世界を表現するための媒体としてアプローチした作品は(オーケストラや器楽作品や声楽作品では、しばしば見かける)は、吹奏楽に関 してはごく限られた数しかないと思う。普段は独自の世界を追求する作曲家が、たまに吹奏楽のための作品を手掛けると、自分の普段のスタイルではなくアマ チュア演奏家向けの商業的な作品や教育的な作品に仕上げることが多いように思う。その意味では、作曲家からの吹奏楽の探究はまだ十分なされていないともい える*。

*ちなみに、新たな表現媒体としての吹奏楽の探究(なんだか大袈裟な言い方になってしまうが)は、今までにも試みられたことはあった。僕が知っている範囲 では、例えば、1993年に秋吉台で吹奏楽をテーマにして、Robert HP PlatzやGerhard Stapler, Giuseppe Giulianoらが吹奏楽の編成で新しい作品を書き、しかもそれを当地の中学生や教員を主体としたバンドが初演する、という試みがなされたりした。秋吉 台ではその後も僕を含む何人かの日本人作曲家に吹奏楽作品を書かせて、それを当地の中学生や高校生に初演してもらうという活動を行なっていた。また、オー ストリアの現代音楽祭Klangspurenでは、毎年吹奏楽のための作品を委嘱し、当地のアマチュアバンドSwarowski Musik Wattensがそれを初演する、という試みを行なっている。また、作曲家中橋愛生氏の運営するサイトでも、こうした 観点から吹奏楽についてかなり突っ込んだ議論がなされている。

実際に吹奏楽のためのオリジナル作品をいくつか聞いてみると、かなり非調性的なものも少なくない。このことを考えると、吹奏楽の聴き手の嗜好は、いわゆる クラシック音楽の聴き手と比べて、かなり柔軟なのではないかとも思える。その意味では、吹奏楽にうまくアプローチできれば、高度に専門化が進んで「ギョー カイ」化してしまった現代音楽の世界に、何らかの風穴をあけることもできるかもしれないとも思ったりするのだが。

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普段、吹奏楽に聴きなれない人が吹奏楽のコンサートに行くと、まずたいていはその音量に圧倒される。ステージにいる人数はマーラーの交響曲を演奏するオー ケストラには及ばないにしても、その音量はスピーカーを通してもいないのに、マーラーなど太刀打ちできないほどである。この大音量は吹奏楽の最も顕著な特 徴と言ってよい。

こうした大音量の一つの理由は、もともと音量の大きい管楽器ばかりだからというよりも、一つの声部をほとんど必ず複数の人間で演奏しているためである。い や、単に一つの楽器のパートを倍管で演奏しているだけではなく、一つの声部には複数の異なる楽器が、ほとんど必ずユニゾンで重ねて書かれるという、吹奏楽 の典型的なオーケストレーションが、このような大音量を可能にするのであろう。

一つの声部を複数の異なる楽器で重ねる、という手法は、音量を得るためと言うよりは、どれかの楽器が欠けても演奏できるようでなければ、合奏して楽しむこ とが出来なくなるという、吹奏楽における一種の社会的な目的のためだろう。また、よりクラシカルなスタイルの音楽の方が、分かりやすく感じられるので、和 声的にも、リズム的にも、伝統的な書式からはみ出ることはまず無い。いわば、吹奏楽というものの消費スタイルが、こうした音楽的な構造を生み出しているの である。その結果、吹奏楽作品のピッチやリズムの構造はよりシンプルに、しかし音量はより大きくなってゆく。

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さて、「新しい可能性」だの何だのと堅いことを言っても、作曲家が吹奏楽の曲を書く時には、どんな形であれ、自分の音楽を書きたいと思うものだ。特定の目 的のために、あるいはアマチュア演奏家を想定して、自分が普段書くのとは全く違う(しばしば調性的な?)ものを書く場合には、吹奏楽の「定石」に従って書 くことになるだろうが、そうでない場合には、その作曲家が普段書いている音楽のスタイルが、吹奏楽という編成を通して表れてくることになるだろう。

先日開かれた現代音楽を中心とした「アジア音楽祭 in Tokyo」のオープニングコンサート(2003年9月17日、文京シビックセンター大ホール)は、吹奏楽にあてられていて、アジア圏を中心とした様々な 作曲家の作品が取り上げられた。このコンサートのプログラムを見ると、現代の作曲家のいくつかのスタイルが、吹奏楽と言うフィルターを通していくつかのパ ターンにわかれて聴こえてきて、その意味でとても興味深かった。

この日演奏された8作品のうち、最初に演奏された草野次郎「祝典ファンファーレ」は音楽祭開会のためのファンファーレということもあって少 し他の作品と作曲意図は異なると思われるので、ここではあまり突っ込んだ議論には取り上げない。なお、この作品は金管楽器群とティンパニのための作品で、 冒頭は半分のトロンボーン奏者がミュート着用だったり、なかなか凝ったものだった。

さて、草野作品以外の7作品は、おおまかに3つのカテゴリーにわけられると思う。

最初の一つは、これまでの吹奏楽作品のレパートリーでとられてきた書式に乗っ取って書かれた作品である。これらの作品の作曲者のスタイルや美意識は、ある 意味で非常に伝統的であると言える。比較的明確なホモフォニックな構造を持ち、従ってごく自然に伝統的な吹奏楽の書式を採用している。これらの作曲家に とって、吹奏楽の書式は、彼等の音楽にとって違和感のないものであり、その書式を使うことは彼ら自身の音楽そのものだと言っても良いくらいである。この作 曲家達が、吹奏楽以外でどのような音楽を書いているのかはわからない。もしかしたら吹奏楽以外には作曲しないかもしれないし、あるいは吹奏楽以外の媒体で も、同じようなスタイルの作品を書いているのかもしれない。ただ、少なくともこれらの作品に関しては、従来の吹奏楽における書法から大きく逸脱することは ない。
Soo-Hyun Park(韓国)の「シンフォニック・ゲーム」Boris Pigovat(ソ連->イスラエル)の「イェメンの風」がこのカテゴリーにあてはまる。前者は、古典的な4楽章から成る。オーケストレー ションの点では非常に典型的な吹奏楽スタイル(多数のクラリネットがユニゾンでメロディーを演奏するあたりは特に)だし、調性感もかなりはっきりしてい る。その意味では、従来の吹奏楽の音楽を支える消費者たちを念頭においた作品といえる。素材となるモチーフがかなり限定されていて、そこがユニークとも言 えるが、逆にそれがやや人工的な印象を与えていたような気がする。後者は、ユニゾン主体のオーケストレーションで、非常に「吹奏楽」的なマッシブな響き で、おそらく今晩のコンサートでもっとも音圧の大きかった作品。コブシを聞かせた朗詠のような前半と、民族音楽の舞曲による後半という構成。こうしたスタ イルは、吹奏楽のレパートリーには典型的に見られるスタイルだが、非常に完成度は高い。演奏効果も抜群(超大盛り上がり)で、日本でもアマチュアのバンド によってどんどん演奏されるようになるだろう。

二番目のカテゴリーは、元来オーケストラの管楽器パートの編成を中心に考えられたもので、ウィンドオーケストラに演奏されることよりは、通常のオーケスト ラの管楽器メンバーによる演奏を想定している(と思われる。その根拠は、オーケストラでは使われることの少ないサックスやユーフォニウムが含まれていない 点にある)。このタイプの作品では、今回のようにウィンドオーケストラのコンサートで取り上げられること自体が、一つの幸運な偶然である、ともいうことが できる。この偶然が、逆に吹奏楽における表現を拡張する可能性はあるだろう。
周文中(中国->アメリカ)の「Riding the Wind」は、ロングトーンや和音の重なりあいに打楽器が乾いたリズムで切 り込んでゆく。ヴァレーズのいくつかの作品を思い起こした人は僕だけではあるまい(ヴァレーズのような攻撃性は余りないが)。彼にとって、吹奏楽と言うメ ディアは、ちょうどヴァレーズが管楽器だけのアンサンブルを好んだのと共通した音響的な趣味を満たすのにちょうど良いのだろう。
ユン・イサン(韓国->ドイツ)の「無窮動」はずいぶん前にサントリーホールが開館した時に一度聴いたことがあった。その時より、 ややもっさりした印象があるのはホールの音響故だろう。この日の演奏ではやや金管群が咆哮し過ぎな感じもあった。また、オリジナルはオーケストラからチェ ロ以上の弦楽器を省いた編成が念頭に置かれているので、コントラバスは8本くらいで演奏されることが念頭にあるのではないかと想像するのだが、この日は2 本を電気的に増幅していた。増幅は不自然な感じはなくてうまくいっていたはと思うのだが、やはり質感がどうしても大人数の場合のようにはならないところが ちょっと残念。

三番目は、最初のカテゴリーと同様、吹奏楽での演奏を前提に作曲されているが、先に述べた吹奏楽の典型的な書式からはある程度距離を置いているものであ る。おそらくもともとその作曲家の持っているスタイルが、吹奏楽の典型的なスタイルからは(ある程度)距離があって、そのことがその音楽に反映されている のだと考えられる。

Robert Lemay(カナダ=ケベック)の「ラマラ」はアルト・サックスをソロにしたコンチェルト。アルトサックスの超高音域、素 早いスラップタンギングなど、ソリスト(須川展也)の技巧が冴え渡る。急激な楽想の転換によって、持続がしばしば断ち切られ、強い緊張感が作り出される。 個々の響きや楽想も、非常に硬質でアグレッシブ。調性感は全く無く、スタイル的にはある意味でもっともオーソドックスな「現代音楽」だが、吹奏楽のパート は非常に自然に良く鳴るように書かれており、時折ソリストを覆い隠してしまう。特殊奏法を駆使したソロ・パートとは対照的に、吹奏楽のパートはほとんど特 殊奏法は使われていない。特殊奏法はあくまでソリストのヴィルトゥオジティを発揮させるためものであって、必ずしも音色的に重要な素材と言うわけではない ようだ。その意味では、伝統的なコンチェルトの範疇に留まるともいえる。作品の終わり近く、テンションが高まったところでは全打楽器奏者によるホイッスル のfffが鳴り響く。

Fung Lam(香港=イギリス留学中)の「内なる光」は、ゆったりとしたパッセージやロングトーンの積み重ねによる響き主体の音楽。 この日演奏された作品の中でもっとも素材や楽想が限定されていた。ffのアタックが随所に挟まれるので、演奏全体の音量が自然に上がってしまうが、本質的 にはたとえばフェルドマンの「コプトの光」のような作品なのだと思う。残響のあまりに多いホール故、細部がぼやけてしまって、おそらく作曲者が想定してい た以上に平板になってしまったのではないだろうか。もう少し個々のパートが聞こえるホールで、音量にメリハリのある演奏でもう一度聴いてみたいと思う。

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さて、こういうところで自分の作品について書くのはちょっと気が引けるが、田中吉史「ウィンドオーケストラのための協奏曲」は、単に自分の 音楽を書くのにたまたま編成が吹奏楽だった、というより、吹奏楽というメディアそのものについて反省することが、この作品の最初のアイディアであった。

僕自身は、正直なところ、吹奏楽が苦手なところがある。その理由はやはり、多くの作品ではあまりに単純な構造に分厚く楽器を塗り付けたようなオーケスト レーションが取られているため、音色的にあまりに単調に聴こえてしまうからである。こうした吹奏楽の分厚い響きは、僕にとっては、例えば邦楽器の古典にお けるペンタトニックのようなもの、あるいは多くの現代邦楽における情念的な表現のようなもの、だ。その楽器(や編成)に固有の響きであり、すでに当然のも のとして確立されているために、それからは何としても逃れたい。とはいえ、その楽器(や編成)と全く無関係なアイディアを無理矢理持ち込むのは安直だと思 う(ちょうど、邦楽器でそのままヒット曲を演奏するのと同じように)。こう書いてしまうとありきたりになってしまうが、因襲的な書き方から離れつつ、いか にしてその楽器(や編成)の特質を生かせるか、作曲上の重要な課題になる。

この「ウィンドオーケストラのための協奏曲」では、全演奏家がソリストと見されている。異なる楽器のユニゾンはできるだけ避け、個々の楽器や演奏家がほと んど常にソリストとして、あるいは少人数のグループとして行動するような書き方をとった。後で気がついたのだが、こういう書き方は、吹奏楽には非常に相応 しいように思える。「オーケストラのための協奏曲」と題された作品はバルトークやルトスワフスキから先頃初演された北爪道夫に至るまでいくつかあるが、弦 楽器奏者までバラバラのソリストとして扱うことにはかなり無理がある。音量的な差があまりに大きいので、たとえばヴィオラ一本とチューバ一本を対等に扱う のは難しい。吹奏楽の場合も、完全にバラバラにして対等に扱うのは難しいにせよ、全奏者をソリストとして考えるやり方は、弦楽器を大量にふくむオーケスト ラよりは向いていると思う。

そのため、この作品は他の作品とくらべてはるかにユニゾンが少なく、全体に音量は控えめである。解説から想像する以上にマッシブだったという意見もある が、マッシブといっても典型的なバンド作品のようなソリッドな感じではなかったと思いたい。吹奏楽にありがちな堅いアタックを中心とした響きからは免れえ たと思うが、他の作品と比べてそれが「効果的」に響いたかどうかはわからない。ホールの残響が多くて予想以上にぼんやりした感じになってしまったが、楽器 の配置を工夫すればもう少し細部はクリアになったかもしれない(例えばpicc, es-cl, fgを前列に配置し、サックスを内側に入れるなど)のが反省点である。

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ダグラス・ボストック指揮の東京佼成ウィンドオーケストラは、非常に高い水準の演奏を聞かせた。リハーサルに参加してみた思ったのだが、指揮者を始め個々 の演奏家の取り組みもとても協力的かつ熱心で、こんなに楽しく効率的にリハが進んだ経験はめったにない。こうした演奏家達がプロとしてこの世界のトップク ラスにいるなら、下手にオーケストラのために書くよりもはるかに有意義なことができるのではないかとも思った。


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