田中吉史のページ/様々なメモ


Chronoi Protoi Vol.4 大編成アンサンブルの可能性〜口を挟める公開リハーサル&ミニコンサート〜第2回ワークショップ

クロノイプロトイは、僕よりは少し下の世代(1970年代半ば生まれ)の作曲家たちのグループ(メンバーは大場陽子、小林寛明、篠田昌伸、鶴見幸代、徳永崇、渡辺俊哉)。これまで日本で結成されてきた様々な作曲家グループの多くは(かつて僕が参加していたTempus Novumを含めて)、自作を披露するコンサートを開催するだけの共同体から抜け出ることがなかったのとは異なり、単なる自作紹介コンサートの枠組みとは異なった形のイヴェントを様々に仕掛けている。久しぶりに彼らのイヴェントに参加することができた。

今回の彼らのプロジェクトは「大編成アンサンブルの可能性ー口を挟める公開リハーサル&ミニコンサート」(2006年2月19日、江東区 男女共同参画推進センター音楽スタジオ)。歌謡曲(?)を6人のメンバーが編曲したメドレーと、クラシックの有名ピアノ曲を3人ずつのメンバーが編曲したものの公開リハーサルとミニコンサートからなるワークショップ、という企画(今回は都合でリハーサルしか聴けなかったので、以下の感想はすべてリハーサルのみに基づくものであることをお断りしておく)。僕が参加した第2回のワークショップでは、「いい湯だな」を6人が編曲したメドレーと、「トロイメライ」の小林、徳永、渡辺の3人による編曲が取り上げられた。

大編成アンサンブル、といっても現代音楽ではおなじみの室内オーケストラの編成に近い(fl, ob, cl, fg, hrn, trp, trb, tub, sax, 1perc, 2vln, vla, vlc, cb)。主催者としては、室内オーケストラと大編成アンサンブルとは特に概念的には区別していないようだ。指揮は夏田昌和。それぞれの作品は短いとはいえ限られた時間でそれらを仕上げてゆくのはそう簡単ではないだろうが(「いい湯だな」は全部で1時間、「トロイメライ」はそれぞれ50分程度ずつ)、最初に一回通した時に何だかよく分からなかった響きのつらなりが、リハの終わる時には明確な形を備えた音楽に変貌しているのは、(そうするのがリハーサルの役割だとはいえ)ちょっと感動する。若いけれどしっかりした演奏家たちと、スコアを丁寧に読んでアンサンブルをまとめ上げてゆく夏田の指揮者としての技量の確かさを実感した。

個々の編曲については、原曲を大きく変更することを避けること、また用意した楽器をすべて用いるという制約を設定したこともあってか、それほど編曲者による大きな違いは出なかったような印象がある。もちろん、よく見ていけばそれぞれの作曲家ごとの好みや音楽性の(質的な)違いがわかるのだが、案外おとなしいなあ、というのが正直な感想。先に挙げた制約のためか、全体的には既存のオーケストレーションのスタイルからはそれほど大きく逸脱してはいない。もちろんそれでも楽器をいかに組み合わせて音楽を作ってゆくか、は奥の深い問題で、スコアを眺めながら目の前でリハーサルを進行してゆくのをみるのはとてもとても勉強になる。

「いい湯だな」は、どの編曲もそれなりにウィットに富んでいて楽しいといえば楽しいのだが、大場編曲以外は基本的にどれも似通っていて、低音楽器によるベースライン、はっきりしたリズムセクションとコード進行、メロディーといった構造がはっきりしたアレンジ。編成もあってちょうど劇伴のような響き。大場編曲だけは、ゆらゆらたゆたうような和音のうえを、グリッサンドを伴うメロディーが漂うような状態が作り出され、ちょっと異色。

「トロイメライ」でも、基本的な制約は変わらないが、「いい湯だな」と較べれば、各編曲者の興味の違いがもう少し明確に出た。 小林編曲は、フルートの最低音域とファゴットの比較的高音域のユニゾン、という古典ではなかなか無い組合せによるメロディーから始まる。全体的には特殊な効果は避けられて、オーソドックスな楽器の使い方によって色づけされている。夏田も、小林のスコアから非常にロマンティックな持続を引き出すようにリハーサルを進めていた。小林の編曲は、メロディが短く断片化されて楽器間で受け渡されてゆくという特徴をもつ。同様の特徴は湯浅譲二編曲のバッハ「平均率」の前奏曲変ロ短調にも見られるが、シューマンとバッハではかなり異なった持続が求められるだろう。夏田も指摘していたが、そこをどのように解釈して演奏してゆくか、なかなか難しい問題があるように思った。

徳永による「トロイメライ」は、(僕の解釈では)比較的クラシカルなオーケストレーションのブロック、金管楽器を中心としたブラスバンド的(軍楽隊的?)なブロック、極めて特殊な音色(弦楽器のトレモロ上でヴィブラフォンがこれまたトレモロでメロディを奏でる、など)によるブロック、といった特徴的な層が交代で登場する。この日の3つの「トロイメライ」の中ではもっとも原曲から距離を取っていた編曲と思う。徳永が事情で来られなかったことを良いことに(^^;)、フロアからの意見や夏田の指摘で、楽器の音域を変えてみたり、特定の部分を取り除いてみたりと、いろいろ試してみた。これによって異なるキャラクターの層の交代という印象が明確になったところもあるが、逆にもとのスコアにあった層と層との連結性が失われたりもしてしまう。やっぱり究極的には音色がどうなるか、ということだけでなく、どのようなコンセプトで、何を優先するのか、という問題が大きいのだな、と痛感。

渡辺の「トロイメライ」は、この日の編曲の中で最も音色に対してフェティッシュな嗜好を示していた。はっきりした和声進行とメロディラインは損なわれることがないが、渡辺好みの繊細なハーモニックスや、時折打ち込まれる鋭いアタックなどが織り込まれる。金管楽器群が一貫してミュートされていたのも、他の編曲とはかなり違うところだ。こうした繊細な仕掛けは、原曲の和声やメロディがあることでかえって聴きとりにくくなるように思えたのだが、渡辺の意図(と夏田の解釈)はそうではなく、むしろ原曲を彩るようなものとしてこれらの音色的な精緻化があるようだ。この日の会場は狭いリハーサル室で、僕が聴いていたのが部屋の隅の方だったので、おそらく通常のコンサートホールで聴けば、また違った印象があることだろう。

ところで、僕にとって「編曲」とは、「編曲者の原曲に対する何らかの批評や解釈を表明するものやそのための行為」である。僕も既存の作品に基づいて作曲するのは好きだし、その意味で編曲はとても面白いのだが、今回のかれらの作品は「編曲」というよりは、楽器による色づけ、という意味での「オーケストレーション」にとどまるようにも思う。もっとも、彼らと僕とではそもそも編曲の定義が異なるのかもしれない。ただ、僕自身は「編曲」にたいして前述したような期待を抱いてしまう。この日の編曲作品ではいずれも編曲者が原曲に対してどのような解釈を行っているのか、あるいはどのような角度からその作品を批評しているのか、という点についての興味は、必ずしも充分に満たされなかった。編曲者がその編曲のコンセプトについて解説する時間があれば、このような印象はかなり変わったかもしれないし、あるいはもっと響きの良い空間で、じっくり聴くことが出来れば、個々の編曲者のアイディアが明確に理解できたかもしれない。

もう一点、どうでも良いことだけれど気になったのは、やっぱり「室内オーケストラ」と「大編成アンサンブル」とがほぼ同義として捉えられていたこと。前述したように、この日のアンサンブルは、オーケストラの各楽器を一つずつ取り出した(のに近い)編成で、現代音楽ではもはや定番になった室内オーケストラの編成とほぼ同じである(強いていえばチューバとサックスがやや特殊ではあるが)。また、どの編曲もわりとすべての楽器を均等に使う傾向が強く、全体に音が分厚くなり、音色的なキャラクターも比較的似通っていたと思う(大場による「いい湯だな」や徳永による「トロイメライ」のような例外はあるのだが)。その点からも、様々な楽器の組合せによる大編成アンサンブル、というよりはオーソドックスな室内「オーケストラ」という印象が強かった。もちろんこれは、原曲の構造を大きく損なわないようにする(だから例えばツェンダー編曲の「冬の旅」のようなやり方はNG)とか、すべての楽器を使う、といった制約、さらに今回選択した原曲(以前から知られている歌謡曲とクラシックの名曲)にもよるのかもしれない。ただ例えば、全体としては多くの楽器が使われていても、部分ごとには比較的限られた数の楽器だけが組み合わせられ、軽やかな響きを作り出しているストラヴィンスキーやカスティリオーニのオーケストレーション、ウェーベルン編曲の「6声のリチェルカーレ」のような原曲とは全く異なる(聴覚上の)構造の創出、などの可能性もあったのかな、とも思う(もちろんこれは個人的な趣味の問題でもあるだろう)。その意味では、「室内オーケストラ」と呼ばず敢えてより一般的な表現である「大編成アンサンブル」という言葉を使うことで、どのような「可能性」を示したかったのか、そこがよく見えないという不満が無いではなかった(もちろん、そこを読み取るのも参加者の課題ではあるのだが)。

同じ作品をそれぞれ趣向を凝らして作った編曲を、実際に鳴らしてみて、その効果を検証してゆく、という作業は、オーケストレーションの演習授業のようでもあった(音大の作曲科では当然こういうことはやっているだろうと思っていたが、実はそうでもないらしい、ということをこの日初めて知った)。その意味では、いろんな冒険をしてきた今までのクロプロのプロジェクトと較べると、随分生真面目でアカデミックな企画だという印象もある。とはいえ、ある程度の作曲活動を行ってきた後で初めてわかることも多い。また活動を続けてゆくと「ちょっと試してみる」機会はどんどん無くなってゆく。特に最近、オーケストラについてはそういうチャンスは減っていて、作曲家がオーケストレーションの腕を磨く機会は殆どなくなっていると言っても良いだろう(これは現代音楽にとってオーケストラというメディアの意義が失われつつあることなのではとも思うのだが)。その意味では、今回の企画で得た経験をクロプロの作曲家(のみならず僕のように眺めていただけの作曲家)が、今後どのように有効利用してゆくか、ということが最も重要な問題なのであろう。などと書くと随分説教くさいのだが、いやいや、とても刺激的な会でした。

(更新2006/3/8)


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