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日本電子音楽協会第11回演奏会の感想


日本電子音楽協会第11回演奏会に行く(2004年9月26日、エレクトーンシティ渋谷メインスタジオ)。「電子オルガン三題噺ー『作曲家の為のエレク トーンマニュアル』による作品展」というサブタイトルがついていて、全日本電子楽器教育研究会が作成した作曲家向けのエレクトーンマニュアルを実際に使用 して、電子音楽協会の会員の作曲家が新作を書き、そのお披露目がこのコンサート、ということらしい。で、なぜ三題噺なのかは結局良くわからなかったが、 「電子オルガン」のほかに二つのキーワードを作曲家が設定し、それに従って書くということのようだ。
コンサートに先立って、全日本電子楽器教育研究会第39回ワークショップとして、この日新作を提供した5人の作曲家(水野みか子、山田香、米本実、三輪真 弘、宮木朝子)が、実際にそのマニュアルを使ってみた感想と新作のコンセプトなどについて語り合った(司会は岩崎真)。些細なことなのかもしれないが、 ワークショップでは、最初「エレクトーン」と言わずにあえて「電子オルガン」と言っていたのが、だんだん「エレクトーン」という言葉に変わっていった。結 局違いは何だったのだろう?

ワークショップの後、休憩を挟んでいよいよコンサート。一曲目は水野みか子「ケル ヒ」。最新機種のエレクトーンELX-1mからのMIDI信号を映像のコントロールにも用いる、というもの(映像:阪本裕文、エレクトー ン:安井正規)。音と同期して映像も切り替わったり変形されたりしているし、それ以外の映像(体育館?の写真をベースに様々に加工されてゆく。モノクロー ムで統一されていたのは曲のイメージに合わせたのか?)の変化も、エレクトーンで制御しているのかもしれない。せわしない響きと映像の変化。シェーンベル クを想起させる非常に手堅く幾分表現主義的な音の選び方が醸し出す「現代音楽」としてのオーソドックスさと、いかにもCGという感じのデジタルな映像との 組み合わせに、やや違和感を感じた。視覚刺激と聴覚刺激がぶつかり合って、何だかわからないが新しいものが生じる、というよりは、十分にエスタブリッシュ した異業種間交流会のような印象をもった。

山田香「和泉式部のアリア「こころみに雨も降らなん」(和泉式部日記より)」は、 ELX-1m(内海源太)に加えてソプラノ独唱(大隅智佳子)と筝(石井まなみ)が加わる。時代がかった荘重なエレクトーンによる導入に続いて、箏のソ ロ、さらにソプラノの朗々とした歌声が入ってくる。エレクトーンの音はアコースティックなオーケストラを想起させるもので、オーケストラの音に出来るだけ 近づけてそれを代用する、というエレクトーン本来(?)の用途にかなう使い方。ワークショップでは作曲者は「オケの弦楽器の代用としてではなく、ストリン グスの2番の音、という発想で書いた」と述べていたので、「代用」という言い方は語弊があるかもしれない。しかし、少なくともこの作品のエレクトーンの パートに関しては、通常のアコースティックなオーケストラに置き換えることはそう難しいことではないように思う。「エレクトーンの音」を最初にイメージし ていても、その音自体は元々はオーケストラのそれとあまり変わらないのではないか。作品の様式は、筝の奏する日本の伝統音楽的な響きをうまく調停した日本 ではよくある調性的な音楽だし、朗々と歌われる「アリア」という考え方も、伝統的なクラシック音楽のそれに完全に依拠している(作曲家の意図は、あるいは クラシック音楽ベースのポピュラー音楽に向かっているのかも。うまい言い方が見つからないが)。やはり実現しようとしている音楽の構造が伝統的なものと大 あまり変わらないのだから、結局普通のオーケストラの代用に聞こえてしまうのだ。

休憩をはさんで三曲目は米本実「回路〜電気の通り道〜No.1」。米 本については噂は耳にしていたし、録音も一部聞いたことはあったのだが、初めてライブで演奏に接する「電気音楽家」。エレクトーン(ELX-1m:赤塚博 美)から出力されるMIDI信号を直接スピーカーに接続すると、ブリブリブリ....というようなノイズが生み出される。このノイズはエレクトーンのキー ボードやダイヤルの操作によって様々に変化する。同時に、中学か高校の技術科の(今は生活科というのか)先生のような、白の開襟シャツにグレーのズボンと いういでたちの米本が、ステージ上で即興的に電気工作を行って発信器を作成、また後半では携帯ラジオでエレクトーンから発せられるノイズを拾う。むき出し で現れる様々なノイズは、かえって心地よい。これらの動作を、ビデオカメラ(松原悠大)で中継しスクリーンに投影して、聴衆によく見えるようにする、とい う配慮がなされる。ハンダ付けで手作りできる電子回路もエレクトーンも究極的には同じものだということがよくわかった。「電気」という非常に抽象的でプリ ミティブな側面からエレクトーンを捉え直すことで、音や音楽の物理的な側面があらわになる、非常に興味深い作品(というかパフォーマンス?)であった。



四曲目は三輪真弘の架空の伝統芸能シリーズ最新作「四指繰講」。エレクトーンの高度なテクノロジーそれ自体を対象にするのではな く、二段の鍵盤とペダルを持つ楽器とそれを操作する身体、という側面に焦点を絞った作品。演奏は両手の親指と薬指だけを用い(だから四指)常に4声体の和 音が鳴っている。それぞれの手は上下一つずつの鍵盤を担当する。ドからラまでの音符に1から6までの数を割り振り、各時点で押さえている4つの指のうちの 2本の音の番号をかけ算して7で割ったあまりの数を次に弾く音にする、というルール。両手の薬指で計算して出た値を次の左薬指のピッチに置き換え、次に左 薬指と左親指で計算した値を左親指のピッチに、次に両親指で計算して出た値を右親指のピッチに、次に右親指と右薬指で計算した値を右薬指のピッチに、とい うプロセスを繰り返す。計算間違いをしないように、弾きながら「ににんがし、あまりはよん」などと口頭で計算してゆく。計算している二つのピッチは連打音 にされ、それ以外の音はのばされる。この計算過程の初期値によって、後の系列は非常に大きく変化するが、だいたい239試行で初期値に戻る、と言う法則が ある。単純なルールから、多様な結果を引き出す、というアイディア。この作品ではスコアなどは全く存在せず、全て三輪から演奏者への口伝で伝承された、と いう。今回の演奏では、二人の演奏家(岩崎孝昭、桑原哲章)がユニゾンで演奏することで計算のチェックを行いつつ演奏された。
さて、架空の伝統芸能シリーズでは様々な「カバーストーリー」が設定されるが、今回の作品では、エレクトーンをオルガンの原型と考えられる架空の楽器 「指ハープ」と見なす。そして、両手の計算の初期値からの計算過程を「相性占い」として、二人の聴衆(男女)から星座と血液型を聞き、それを初期値とし、 途中のプロセス(穏やかに変化する場合もあれば、特定のピッチに修練する場合もあれば、激しく変化する場合もある、という)を相性と見なす。この日は事前 に名乗りを上げた人がいなかったので、演奏者が無作為に聴衆を選んだら、僕に当たってしまった。そういうわけで期せずしてこの作品の初期値の一部を提供す ることになった。
淡々と続くオルガンの音と、マイクを通さず聞こえる演奏者の計算の声、そして以前から三輪がよく使うモーダルな響き。計算過程自体は非個性的ながら、リア ライズされる響きは、以前から三輪の作品が持つある種のほのぼの感に満たされている。ロジックがありながらそれに終わらない部分が、三輪の音楽性といえる だろう。

最後は宮木朝子「Orfeu mix」。エレクトーン(ELX- 1m:平沼有梨)とエレキギター(及川潤耶)のデュオ。宮木らしい叙情性を前面に出した音楽。聴いた印象から考えるに、他の4作品は、あらかじめこの楽器 が与えられるところから作品を書くことが始まっているのに対し、宮木の作品は、あらかじめ表現したい音楽があって、その実現のために新しいエレクトーンの 機能をいかに使うのか、という意識を持っているように感じた。エレクトーンの音もエレキギターを変調したものを素材としているらしく、その意味ではエレク トーンは高度なサンプラーとしての機能を果たしている。たっぷりエコーがかかったモーダルな響きは、一歩間違えればムード音楽に陥るが、同時にディストー ションやノイズを多分に含む音響によってあやういバランスを保っている。

こうしたタイプの、一つの楽器に焦点を当てた新作演奏会の意図は、その楽器がいかに多彩な可能性をもっているのかを示すところにあるのだと思 う。その点では成功したコンサートだったのではないか。ただ、この手の新楽器の場合は、その楽器のどのような機能をどう使っているのか、という技術的=エ ンジニアリング的な解説がプログラム冊子に載っていれば、なお一層興味を引かれたに違いない。

ところで、楽器というものは本来は特定の音楽様式や美学と深く結びついているものだ。ヴァイオリンにしろピアノにしろ、あるいはオーケストラにしろ、特定 の使い方をしたときに最も豊かに、効率的に響くように設計されていると言ってよい。その楽器を生み出した特定の様式や美学を、作曲家が捨てようとすると き、ほとんど必然的に、その楽器の「最適解」を離れてゆくことになる。例えばラッヘンマンが特殊奏法を使うときの考え方はまさにこういうことで、伝統的な 楽器が「特殊な」響きを苦しそうに生み出すことによって生まれる緊張感こそが、「新しい」音楽表現の核になるのだろう(もちろんこの考え方も「特定の」美 学なのだが)。その点、「新しい」音楽表現に適するようにいろいろな機能が用意された新しい楽器(多機能のエレクトーンを含めて)では、無理矢理距離をと ろうとする対象物がない事自体が、かえって「新しさ」を感じさせることの難しさにつながってゆくのだと思う。その点で、そういう新たなテクノロジーを真正 面から使おうとした作品よりも、そういう気張った開発者の姿勢をチャラにしてしまうようなアプローチの作品(エレクトーンを単なる電磁波の発生装置と見な してしまった米本や、二段の鍵盤を持つ楽器として扱ってしまった三輪)の方が、僕にとっては興味深かった。楽器本来の意図を全く別のものにしてしまう、と いう点で、(決して「伝統」に厳しく対峙するような気張ったところはないにも関わらず)米本や三輪のアプローチはエレクトーンの特殊奏法の探求だったとも いえる。
(ところで、普段別に「特殊奏法」に対するこだわりがある訳ではないのに、こういうことを書いていると、なんだかとても「進歩主義」者のように思えてしま う。ちょっとショック。)


(更新2004/10/23補筆)


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