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ディオティマ弦楽四重奏団演奏会@津田ホール

パリ在住の若手によるディオティマ弦楽四重奏団演奏会に行く(2004年9月18日、津田ホール)。「ハイドンから細川俊夫へ」というサブタイトルが示す ように、弦楽四重奏の歴史全体をほぼ俯瞰する選曲で、ウェーベルンの「5つの楽章op.5」、ファニホウの弦楽四重奏曲第2番、ハイドンの弦楽四重奏曲第 2番op1-2、休憩を挟んで細川俊夫「沈黙の花」、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第10番「ハープ」op.74、アンコールにストラヴィンスキー「コン チェルティーノ」というプログラム。古典2曲はともに変ホ長調という柔らかめの響きの調の作品が選ばれており、非常に吟味されている。

一曲目、ウェーベルンの「5つの楽章」は初期の表現主義的な色彩を色 濃く残した作品。丁寧で、かつ緩急のメリハリのきいた演奏。つづくファニホウの第2 番は、アルディッティの鋭角的で推進力の強い演奏と比べると、ウェーベルンの演奏と同様、音の濃淡を明確に把握しつつ、細部に気を配った非 常に丁寧なリアリゼーション。アルディッティの演奏では鋭く斬りつけてくるような激しいパッセージが印象的だが、ディオティマ弦楽四重奏団の演奏はむしろ そうしたアグレッシブなパッセージの合間にあらわれる弱音の美しさが際だつ。こうして聴くと、ファニホウの作品の端正さが全面に現れていたように思う。
さて、ウェーベルン、ファニホウと続いた後、ハイドンの最初期の弦楽四重奏曲を聴くと、あまりの落差にくらくらと眩暈を覚えた。考えてみると、古典と現代 物を組み合わせたコンサートでは、まず古典で指慣らし、耳慣らしをした後で現代物を聴かせることが多いが、今日の曲順は全く逆。彼らが現代物もハイドンも 全く等価なものとして捉えていることをよく表していると言える。それにしても、前の二曲と比べて、際だってシンプルなハイドンにこんなに当惑させられると は、意外な体験。ハイドンの演奏では、当時の演奏習慣に合わせて(だと思うけど)ヴァイオリンを左右に振り分けて演奏する、という細やかな配慮がなされ る。これによって、各楽器の持たされた機能の違いがより明確に感じ取られたように思う。

前半の演奏を振り返ると、現代作品ではスル・ポンティチェロや様々なノイズを含む奏法を使いながらも、全体として非常に丁寧な演奏だったという印象があっ たが、休憩後は(選曲のせいもあってか)むしろよりアグレッシブな表現が前面に出たように思う。細川俊夫の近作「沈黙の花」では、一貫してノイズを多く含む音色で、強い緊張感 を孕んだ世界を作り出す。より以前の弦楽四重奏のための作品(たとえば「ランドスケープI」)と共通した表現が多く含まれる(たとえば鋭く切り込むような 短音とロングトーンの対比など)けれども、より一層横の持続、というか、長く保たれた響きの内部に入ってゆくような時間が作られるのが、最近の細川作品の 特徴といえるかもしれない。
細川作品を聴きながら、前半なぜあれほどハイドンに当惑させられたのか、その理由がすこしわかったような気がした。この日演奏されたウェーベルン、ファニ ホウ、細川の3作品では、いずれも4つの楽器は独立したパートとしてというよりも、全体で一つの響きを作り出すもの として扱われており(もちろんそれぞれの楽器の特徴を生かすように考えられてはいても)、二つのヴァイオリン、ヴィオラ、チェロは音楽上の機能の面で違う ものとしてではなく、音色的な濃淡(音域の違いも含めて)の変化をつくりだすものとして扱われている。音楽の持続も、基本的にはそうした全体的な濃淡の変 化が中心的な役割を果たしている。一方ハイドンでは、4つの楽器は和声的な観点からみて明確に異なった役割(上声部のヴァイオリン、中声部のヴィオラ、バ スを担当するチェロ)が割り当てられており、時折こうした関係が崩されることはあっても、基本的にはこの枠組みから外れることはない。そのため、4つの楽 器がむき出しになって、その結果生じるあっけらかんとした響きの単純さにとまどいを感じたのだと思う。
最後のベートーヴェンの「ハープ」が始まったときにも、ハイドンで感 じたような落差を感じたが、程なくベートーヴェンの自在な筆の運びに引き込まれる。一見気ままに進んでゆくような音楽の進行や唐突な楽想の変化に、この日 の他の作品にはないユーモアを感じた。ディオティマ弦楽四重奏団の演奏も、最初はやや堅さを感じたが、後半では生き生きとした音楽を作り出していたし、演 奏者自身も楽しみながら音楽を紡ぎ出してゆく様子だった。もうちょっと軽味があっても良かったかもしれないが、特に3楽章の後半からのエネルギーの高まり は非常に印象的だった。

ところで、この日の選曲では、ベートーヴェンの「ハープ」(1809年)とウェーベルンの「5つの楽章」(1909)の間に100年の開きがある。この間 に弦楽四重奏のための音楽のあり方がいかに大きく変化したかが実感できた(もちろん、ウェーベルン以降に書かれた弦楽四重奏曲のすべてが、今日演奏された 現代作品と同じような書式で書かれているわけではないが)。また、弦楽四重奏という編成が背負わされた近代以降の西洋調性音楽の烙印(逆に言うと、これほ どクラシック音楽に適した表現媒体は他にないのではないかとすら思える)を実感したし、弦楽四重奏という編成の現代における必然性は何か、というようなこ とも考えさせられた。
ただ、今日の選曲ではハイドン・ベートーヴェンとウェーベルン・ファニホウ・細川の間のギャップの大きさに最初は戸惑いを覚えたのも事実。なんというか、 両グループの落差が大きすぎて、しかも交代にプログラミングされていることもあって、個人的には今一つ個々の作品の中に入り込んで聴けないような感じも あった(僕はわりと一曲一曲没入して聴いてしまう傾向があるせいだろうけれど)。しかし、アンコールで演奏されたストラヴィンスキーの「コンチェルティーノ」を聴いて、この間の落差が非常にう まく埋められた、と思った。この作品は、ちょうどこの両グループの間を埋めるように、個々の楽器がバラバラでありながら、4つの楽器は対等なものとして処 理される。アンコール前の千々岩英一(ヴァイオリン)の解説では、アンコールの選曲は必ずしも充分考慮されたものではなかったようだが、これによってコン サート全体がうまくつながった、という印象を持った。

ディオティマ弦楽四重奏団は、非常に息のあったアンサンブル。音楽のどこをどう弾きたいか、またどう造形してゆくか、という意識がハッキリ現れた演奏で、 特に現代作品でこれらの特徴が非常に生かされていたと思う。ホールの特性のせいか、古典ではもうちょっと響きが分離しても良いのにと思う箇所があったのが 残念だが、現代作品における弱音の美しさが特に印象的だった。

(更新2004/9/18)


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