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「演算するからだ展」の感想

心地よく晴れた秋空の日曜日、横浜まで「演算するからだ展」(監修:三輪眞弘)を見に行く(2004年10月17日、神奈川県ホール小ホール)。僕が行っ たのは16日と17日の二回公演の二日目。これは、中ザワヒデキ、松井 茂、三輪眞弘による「方法主義」の舞台公演であり、この三人の他、三輪に師事した二人の若手、鈴木悦久、安野太他、以前「方法」同人だった足立智美、 パリ在住のアメリカ人作曲家Tom Johnsonの作品が演奏された。この公演ではまた、「方法」同人が名付け親である方法マシ ンが鈴木、安野作品以外のすべてをリアリゼーションし、デビューを飾った。方法マシンは総勢12人、それぞれがなかなか味のある風貌の人たちであ る。

ロビーには、今回披露される作品についての解説とコンピュータによるデモンストレーションが並んでいる。人だかりがしていたりして、事前にじっくり見る時 間が無かったのが残念。

さて、いよいよ開演。どんな出し物だろうとワクワクしながら席に着く。
足立智美の「方法音楽第9番a&b」は、7人の出演者が左手 に楽譜を持ち、右手をピアノの鍵盤に置いて、びっしりと並んだ状態で演奏される。ピアノの全音域が一斉にならされる様は、まるでナンカロウのようだ。な お、同じ作品が、全プログラム終了後のアンコールとしてパイプオルガンで演奏されたが、こちらはあまりインパクトがなかった。たぶんパイプオルガンの音の 分厚さにはすでに慣れているからだろう。
続いて、同じく足立「方法音楽第8番c」は、6人の出演者と指揮(夏 田昌和)によるリアリゼーション。夏田のカッチリとした指揮にあわせて、各出演者が首を動かして各自の左右に置かれた譜面台をのぞき込む。意図的に発せら れる音は何もないが、6人の首が一斉に同じ方向を向いたり、各パートがバラバラに右を向いたり左を向いたりしている様子は、プリミティブな形態の対位法を 見ているような感じがあった。細かいことなんだが、出演者の一人だけ、少しタイミングがずれていて、しかも首の動きが小さいのが気になる。

Tom Johnsonの「Counting Duet」は、数字の 読み上げによって構成された作品。オリジナルでは二人のスピーカーによるものだが、今回はつなぎの制服をきた方法マシンが2部に分かれた合唱スタイルで演 奏する。合唱だと、数字がちょっと聞き取りにくくなるのが難点。全5楽章から成るこの作品は、原曲にどのくらい指定があるのかわからないが、アクション付 きで演奏された楽章、二人だけのデュエットで演奏された楽章など、いろいろと演出にも工夫が凝らされている。ところで、最近Tom Johnsonが、自作自演している「Secret Songs」のCDを入手した("from the kitchen archive, new music, new york 1979", Orange Mountain Music omm0015)。この作品も、一人の話者がシステマティックに並べられた無意味なシラブルをリズミックに読みあげてゆくものだが、その演 奏は実に淡々としていて、構造のシンプルさが際だって感じられる。方法マシンによる「Counting Duet」も、これはこれで面白いが、元々は余計な演出無しに淡々と演じられるものなのかもしれない。この曲を聴きながら、数字の逆唱が成人用知能テスト に含まれていることを思い出す。組織的な数字の読み上げをリズムに乗って行わなければならないこの作品は、もしかしたらアルツハイマー性痴呆の予防に役立 つのかもしれない。老人ホームなどでのゲームとして、あるいは記憶障害のリハビリとして、「Counting Duet」を取り入れるのはどうだろう?(本気)

鈴木悦久の「環・カルテット」は、4人の打楽器奏者(作曲者、蛯名優 美、西川和佳奈、細川ひとみ)が片手にマラカス みたいな楽器(名前がわからない^^;)でビートをとりながら、もう片方の手で、ルールに従ってマリンバの鍵盤をたたいてゆく。一種のゲームピースで、 ピッチの選び方によって4人のプレイヤーの勝ち負けが決まる仕組みになっているそうだ。プログラムノートにはそのルールが詳細には記されていない(ロビー の展示にはあったようだが、僕は見逃してしまった。まあ、僕以外の全聴衆が見ていたわけでもないだろうけど)ので、ゲームがいまどのような状態なのか、聴 衆にはわからない(それにステージが客席よりも高いので、多くの聴衆には鍵盤の様子は見えない)。終演後のアフタートークで作曲者は、演奏家がルールにな じんでくると、ゲームに集中して音楽としての演奏に意識が向かなくなるが、終わった後で、今のは音楽としても良かったんじゃない、といった話がでる、と 語っていた。ここでは聴衆の多くは、演奏家とゲームを分かち合ってはいない。これは多くのゲームとは随分異なっている。野球にしろサッカーにしろ将棋にし ろ、ルールはプレイヤーと聴衆とで共有されていて、聴衆も純粋にゲームの運び方そのものを楽しむことになる。ゲーム運び以外の要素で聴衆を沸かせるのは日 ハム新庄選手ぐらいのもので(^^;)、多くのプレイヤーはゲーム運び自体に集中している。「環・カルテット」は(少なくともこの状況では)聴衆は完全に ゲームから疎外されており、意味の全くわからないまま、ゲームの副産物である音響やプレイヤーの位置の変化だけを淡々と追わなければならない。この状態で かなり長時間にわたる演奏を聴くのは、正直つらかった。ゲームのルールを徹底的に周知させるか(演奏を始める前に解説するとか、実況解説をするとか)、あ るいは音響的な結果にも十分配慮したリアリゼーションを考えるかが必要なのではないだろうか?

中ザワヒデキの「金額」は本来は美術作品。1円から徐々に金額を上げ てゆき、各金額を構成するのに可能な硬貨のすべての組み合わせを順番に敷き詰めてゆく、という作品。ロビーの一角をびっしりと埋め尽くした硬貨は圧巻。こ んなにたくさんあってもまだ17万円か、募金箱の中の金額はたいしたこと無いんだな、などと考える。この日は、演奏会の半ばに、休憩もかねて聴衆をロビー に連れ出し、中ザワの解説を交えて実際に並べるところをデモンストレーションした。ここでは方法マシンの面々は、コインを分類する人、次のステップで必要 なコインの枚数を読み上げる人、そのコインを準備する人、運ぶ人、並べる人、と言う具合に分業して作業に当たっていた。ただ、僕がたっていた場所からは、 並べているところが遠くて、ドットプリンターがコインをはじき出しているような風景にはちょっと見えなかった(でもイメージはわかる)。

松井茂の「純粋詩」は、もとは漢数字の一、二、三のシステマティック な配列のみによって構成された詩。今回は作者の書く行為をそのまま別の行為(ここでは歩く歩数やお辞儀の回数など)に変換することで演じられた。方法マシ ンの面々が、舞台を横切ったり、横歩きしたりしながら、その歩数で純粋詩を再現する。そういえばシュネーベルの作品にも、歩くだけの作品があったが、シュ ネーベルの場合にはたしか歩く速さの違いによって生まれる周期的なリズムが主眼になっていた。さて、方法マシンの面々の歩き方は、人それぞれ、個性が現れ ていた。ダンスやマスゲームのように、それこそマシン的な動作ではなかった分、歩数そのものよりは一人一人の歩き方の方に注意が向いてしまった。個人的に は、松井のもとの純粋詩を見たときほどの驚きはなかった。

三輪眞弘の「またりさま」はこれまでも様々な形で上演されてきたのは 知っていたが、初めて見ることができた。今回は三輪の作ったストーリーにそう形で、非常に秘密宗教的な雰囲気の中、上演された。薄暗がりの中、環になって 座り、規則に従って前の人の肩を鈴やカスタネットで順々にたたいてゆく。二人の宮司が、ルールに違反していないかチェックし、違反した場合には中断させ、 もう一度やり直す。二日公演の終わり近く、かなり疲れていたのか、やり直すたびにエラーが生じやすくなっていった。聴いていてもルールはわからないが、円 環の中を鈴とカスタネットの音がぐるぐると回ってゆく様、それが時にテンポが揺れたり、微妙に音色が変化したりしながら続いてゆく様子は面白い。本当に何 十年もこれをやってるんじゃないかと思うくらい堂に入った宮司役の声も印象的だった。

安野太郎の「ぺぺ・ビリンバン・ポイ野」は、リコーダーの8つの穴の 開閉を1,0で表現して8ビットの値として見なし、左右の手の値を演算しながら次の値を決めてゆく、という方法によるもの。リコーダーのピッチは息の圧力 によっても変化するわけだが、ここでは無視して、純粋に運指だけを対象としている。ここでは3体の人形に扮した3人の演奏者と、トイピアノを弾くもう一人 の4人(らぶ75、うなじスト、なにぬねのりのりのりりんぼ、ぼちょう)による演奏。トイピアノのパートが、リコーダーのパートとどういう関係にあるのか はわからなかった。3人のリコーダー奏者はぐるぐる回りながら(そ れこそオルゴール人形のように)演奏する。濃いい化粧にロリータファッション、という強烈なコスチュームは個人的には好きではないので、それだけでちょっ と引き気味。淡々と等拍で吹かれるリコーダーの音(ピッチは平均率的ではなくて面白いのだが)にからむトイピアノの音が延々と続き、飽きてしまう。

終演後のアフタートークでは、主に方法主義者によって設定されたシステム(彼らの用語ではアルゴリズム)をリアリゼーションするとき、どの範囲までが作曲 者の意図した部分なのか、という点について意見が交わされた。基本的にはシステムを設定する部分までが作曲者の関与する範囲で、あとはそれをパフォーマン スする側の解釈ということのようだった(三輪の場合はカバーストーリーまで、と松井、安野よりも範囲は広いようだったが)。ただこの比較は、伝統的な西洋 音楽における譜面とアルゴリズムを同一視すればそうなる、と言うことに過ぎないように思う。例えば芝居の台本は、それ自体で鑑賞可能ではあっても、演出家 による解釈や俳優による演技がなければ、戯曲であっても芝居ではない。方法主義者によって作られたアルゴリズムも、戯曲のようなものだと考えれば、作者が 最終的な結果にそれほど大きな関心を持たなくても、それほど不思議なものであるようには思われない。結局、アルゴリズムをどうパフォーマンスの形に解釈す るか、という自由度の大きさの問題に過ぎないだろうし、そもそも既存の「音楽作品」のように鑑賞されなければならないわけでもないだろう。

僕はこの日の演目を、それなりに面白いと思ったり、そうでもないなと思ったりしながら見ていた。ただ、その面白さは、アルゴリズム自体によるものというよ りも、それを解釈した結果現れた表面的な特徴に依存するものであるようにも思う。例えば、「またりさま」では、ぐるぐると回る鈴やカスタネットの音、パ フォーマーによって微妙に違う鈴の音色や、微妙なテンポの揺れ、あるいは「宮司」のもったいぶった仕切の声などが、興味の対象であったし、足立の「方法音 楽第8番c」は、ロビーに展示されていたアニメーションでは全く興味を引かれなかったが、舞台でのリアリゼーションは非常に興味深かった。ここではあまり 良い感想を書かなかったけれど、鈴木作品と安野作品も、うまいプレゼンテーションを考えれば、きっと楽しめただろう。だが、こんな鑑賞の仕方で良いのだろ うか?具体的に目に見え、耳にきこえる形に変換されたとき、僕は否応なしに自分が今まで聴いたことのある音楽と共通する特徴に反応していた。別の言い方を すれば、僕が知っている音楽と同じように鑑賞したのであって、新たなる芸術である「方法」として鑑賞したのではかった。これは正しい「方法」の鑑賞のあり 方だろうか?

システムやアルゴリズムそれ自体は感覚に訴える「現象」ではなく、あくまでも抽象的な(概念的な)存在である。それを音響やあるいは視覚的な媒介によって リアリゼーションするとき、それを受け取る側はどうしてもそれ以前に体験したことのある既存の芸術(音楽やダンスなど)の鑑賞の仕方を持ち込んでしまいが ちになる。つまり、ロジックは新しくても、それが実際に具現化される際には、どうしてもその媒体が持つ(大げさな言い方をすれば)歴史性に絡め取られる危 険が出てくる。例えば、この日の方法マシンによる演目では、歩き方や体の動作はダンスやマスゲームの場合ほど徹底した均質化・画一化が図られているわけで はなかったが、これらの既存の身体による視覚的表現と較べれば、体の動かし方の鍛錬という点で中途半端に感じられる。ダンスやマスゲームを鑑賞する際、我 々凡人にはできないような柔軟な、ダイナミックな、表現豊かな、等々のダンサーの表現や、普通ではあり得ないような機械的な体の動きに感嘆し、まさにそれ を求めてもいたりする。方法マシンが、一日30分の個人練習を徹底し、毎月の集団練習にも参集して鍛練を積む、その技術(とりあえずそう呼んでおこう) は、既存の身体表現とは同じではないのだろう。だとしたら、方法マシンが求める新たな身体表現とは何なのか?今回の公演では、そこがなかなか見えてこない もどかしさを感じた。
こうした印象が生まれる一つの原因は、アルゴリズムを実現するために用いられた個々の動作が、常人にマネできない高度な技量を要するものではなかった、と いう点にあるかもしれない。つまり、個々の動作はわりと平凡なものなので、どこが難しいのか、「肉体の鍛錬」なのかが見えにくい。もちろん、個々の動作は 平凡でも、それを何らかのルールに従って遂行することは非常に難しいことがある(たとえば「またりさま」のように)わけで、その意味では「超絶技巧」のレ ベルが伝統的な身体芸術とは異なっているとも言える(だから、表面上の不揃いや中途半端さは別にどうってことはない、というのが彼らの言い分かもしれな い)。いずれにせよ、方法マシンがどんな身体表現に向かっているのかを理解するには(少なくとも僕には)もう少し時間が必要だし、また、方法マシンの側で もその指向する世界をより明確に呈示するような、何らかの戦略が必要なのかもしれない。

ところで、「演算するからだ展」の重要なコンセプトは、通常はコンピュータが実行するアルゴリズミックなプロセスを、あえて人間が実行する、という点にあ るのだろう。これは三輪の提唱する「逆シミュレーション音楽」のアイディアの延長にあるものだといえる。ただ、今回の公演のような「コンピュータがやるこ とは人間もできる!」という発想自体は、個人的には、そんなに新鮮ではないように思える。計算活動という点でコンピュータが人間より優れている点は、おお ざっぱにまとめてしまえば、処理の速さ(と正確さ)、単位時間あたりに処理可能な情報量の多さ、ということになるだろう。その意味で、この日演奏された作 品のように、情報を限定し、速度もかなり落とすなら、当然人間にもできるわけで、それは計算ドリルの遂行と本質的には変わらない。
また、1950年代の認知科学の勃興以来、コンピュータは人間の知性の一つのモデルとして捉えられてきた。もっと言えば、知能も含めて人間自体が一つのマ シンであるという思想は、デカルト以来古くから存在するものだ。人間というマシンが作り出す諸々の音楽を、マシンである我々が鑑賞し、感情を喚起し、時に 涙しさえする。表情豊かで「人間的」な不規則性を実現する人間(の認知システム)だって、高度で複雑な演算を行う一つのマシンと見なせないこともないので ある。そう考えると、無表情にできるだけ徹して、基本的に等拍なビートにのって動作を行う、といった方法マシンによる様々なパフォーマンスは、マシン=単 純・画一的・無感情、といったわりとステレオタイプなイメージに乗っかっているような気もする。そういうチープ感も意図してのことなんだろうか?まあ、た しかにテクノミュージック初期のクラフトワークやイエロー・マジック・オーケストラも、そんなイメージを前面に出していたわけだが。


(更新2004/10/31, 11/2補筆)


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