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「井上郷子ピアノリサイタル〜鍵盤上のフルクサス〜」の感想

ピアニストの井上郷子は、毎年一回、表参道のカワイミュージックショップ青山の喫茶室「コンサートサロン・パウゼ」で、特定のテーマを設定したソロ・リサ イタルを行っている(昨年はドイツ在住の韓国人作曲家シム・クンスの作品を特集し、その様子はweb-criで報告されている。その前は来日を控えたリュック・フェラーリ特 集だった)。今回(2004年9月24日)のテーマは「鍵盤上のフルクサス」。フルクサスに参加したフィリップ・コーナーと塩見允枝子の作品を取り上げた プログラムで、順にコーナーの「the Piano Unveiled」、塩見のフラクタル・フリークNo.3「パラボリック」(1998)、「83個のビー玉のためのフォーミュラ」(1991)、休憩後、 コーナーの「petali pianissimoまたはSoft Petals」、「Waltz」、「Chopin Prelude II」、「Overt(Open)ture」、「A Keyboard Dannce」、塩見のフラクタル・フリークNo.4「彩られた影」が演奏された。

コンサートの冒頭、井上がステージに登場すると、ピアノはカバーがかけられ、丁寧にしまわれたままである。そこで二人のアシスタントに指示して、カバーを 取り、ふたを開け、鍵盤カバーも外し、譜面台をセットし、椅子を持ってきて、拍手!これが「the Piano Unveiled -  a Reality」。休憩後、コーナーの小品が続けて披露された。「petali pianissimo又はSoft Pedal」は、ピアニストの背後から花びらが振りまかれ、鍵盤上に落ちた花びらを、鍵盤をそっと押さえながらずらして下に落としてゆく。この様子をじっ と見守るのも面白かったが、実際に自分でやってみる方がうんと面白いのかもしれない。「Waltz」はピアノの鍵盤以外の部分をたたいて三拍子のリズムが 刻まれる。「Chopin Prelude II」はショパンのピアノ曲の一部分が延々と繰り返される。コーナーの作品はいずれも題名を知った上で聴くと(見ると)思わず微笑みが漏れる、そんな小 品。

塩見の「83個のビー玉のためのフォーミュラ」では、ピアノの内部にビー玉が一つずつ投げ込まれる。ビー玉が弦の上を転がり、鍵盤を弾いたために生じる振 動で予想不可能な様々な音を立てる。演奏に先立って、ビー玉が弦の下に入らないように、念入りに準備された。
僕自身、考えてみればフルクサスについてはあまり良く知らなかったし、その作品に実際に触れることもあまりなかった。だから、これらの作品について何かを 論じることはとても難しい。ただ、当日配布されたパンフレットにはジョージ・ブレクトの言葉が紹介されていて、それによるとフルクサスは「何か名づけよう のないものを共通に持っているものたちが、彼らの作品を出版したり演奏したりする際に協働する」という運動だという。そう考えれば、無理に何かを論じよう とするよりも(つまり乏しい知識を弄して音楽史的な意義や美学的な問題を云々するよりも)、そこで聴かれ見られたものを単純に現象として楽しむことの方が 真っ当な鑑賞の仕方なのだろうと思う。確かに、これらの作品は音楽的かどうかを問う以前に、それらの音やそれを生み出す行為自体が詩的で興味深いものだっ た。

塩見の二つの「フラクタル・フリーク」は華やかでとても弾き映えがする、ピアノ曲としてとても効果的に書かれた作品。塩見自身ピアノという楽器のことをよ く知っているのだと思う。分厚い和音には(ちょっと強引だが)、所々メシアンを想起する様な華やかささえある。この日のリサイタルの他のどの曲よりも、ピ アノという楽器がそれ自体の開発された目的に沿って、雄弁に鳴り響く。ただ、そのことに逆に戸惑いを感じる。これらの作品は、演奏形態の面では全く伝統的 なピアノ曲と変化はなく、概念的にも伝統的なピアノ音楽の範疇で解釈できるものだと思う。そしてその意味で、これらの作品はほかの所で聴いたり見たりした 塩見の作品とも違う。「フラクタル・フリーク」は塩見のほかの作品とどうつながっているのだろうか?あるいはこれらのピアノ曲は伝統的なピアノ音楽の系譜 と歴史的にどうつながるのだろうか?塩見自身はこれらのことをどのように考えているのだろうか?

こう書いているうちに、言葉を弄して論じるまいと言いつつも、やはり聴いた作品や作曲家を何らかの形でカテゴライズしたり「位置づけ」しようとしている自 分に気づく。フィリップ・コーナーに対してもまた、「名付けられないもの」としてカテゴライズしようとしていたのだと思う。あるいは塩見の作品については こんな言い方も出来るかもしれない。「83個のビー玉のためのフォーミュラ」は、それ自身伝統的なピアノ曲との類似性が非常に少ないので、聴く側としては 別の聴き方を自発的に探してゆきやすい。一方「フラクタル・フリーク」は一見あまりに伝統的なピアノ曲なので、自然にクラシカルな(あるいは現代に書かれ た多くのピアノ曲と同様の)聴き方をしてしまいそうになる。そしてその事が塩見の作品の鑑賞の仕方として正しいのか、戸惑ってしまう。そんなことを考えて いる間にも、塩見の音楽それ自体は何らかのカテゴライズや歴史的な意味付けから身をかわして、再び名付けようのない何ものかに戻っていくように思われる。

ここ数年の間に、僕と同じか若い世代の人たちによってフルクサスやそれに近いタイプの60年代の実験的な作品が上演されている。そのすべてを見たわけでは ないけれど、おもしろおかしく演出されすぎているように感じるものが多かった。もちろん作品や作家にもよるのだろうが、井上の演奏は、過剰な演出に陥るこ となく、出来事そのもののもつユーモアをシンプルな形で引き出しているように思った。


(更新2004/11/07)


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