田中吉史のページ/様々なメモ


NHK交響楽団「Music Tomorrow '04」の感想

NHK交響楽団が毎年やっている現代作品限定のコンサートMusic Tomorrow'04(2004年7月4日、東京オペラシティ・コンサートホー ル)に行く。毎年やっているこのシリーズに足を運ぶのも、思い返してみれば10数年ぶり。以前はMusic in Futureというタイトルのシリーズだったのだが、遠い未来の音楽に思いを馳せるどころではなく、明日の音楽で手一杯、ということか(^^;)。
さて、今回はちょっと節約して、自由席のチケットを購入。3階の側面壁沿いが自由席。なるべくセンターに近い席(舞台に向かって左側)を取ったのだが、か なり身を乗り出さないと舞台が半分くらいしか見えなくて、ちょっと後悔。

1曲目はオーストリアの若手Johannes Maria Staudのピアノ協奏曲「Polygon」。Staudはインスブルック出身の今年丁度30歳の若手、日本だと渡辺俊哉君あたりと同世 代。2002年にチロルのKlangspurenに行ったときにも彼の作品を聴いたが、地元紙で特集記事が組まれる等、すっかりスターであった。この作品 は、今年の3月にNHK-FMで放送されていたし、またKairosからCDが発売されているので、既に聴いたことのある人は多いだろうと思う。ホルンの 代わりにワーグナーテューバが使われていたり、サクソフォン2本とアコーディオンが加えられたりと、なかなか特徴的な楽器編成だが、全体には分厚い (ちょっと重たい)オーケストレーション。振動するタムタムや独奏ピアノの弦にトライアングルのスティックを軽く触れて、ビリビリと共鳴させる音が多用さ れて、それが印象的だった。よく書かれているし、(スピード感ある冒頭等)ある意味若手らしいパワーを感じさせるのだが、音色的な個性はまだあまり感じら れない、というのが正直な 感想。例えば、前述したような特殊な楽器の編入も、微妙な音色の違いを生み出すにとどまっている印象があって(それも狙いなのだろうけれど)、これらの楽 器が舞台に登場するのを見たときに感じたほどの衝撃(というと大げさだが)は無かった。

2曲目は、N響委嘱の望月京「クラウド・ナイン」初演。ステージの比 較的小編成のオケ本体のほか、ステージの両端と客席2階に聴衆を取り囲むように少人数の楽器群が配置される。3階の席からは、音が周りを取り囲むように、 というよりも下の方をぐるぐる回るように聴こえる。安い席にしたことをますます後悔する。それはともかく、冒頭、ヴァイオリン・ソロのG線開放弦のきしむ ようなリズムが、徐々に弦楽器や他の楽器群に波及してゆくところから、望月ワールドに引き込まれる。音色に対する独自のセンスと、開放的で自然体な音楽の 持続が、何よりも望月作品の魅力である。全体に、最近の望月作品(先日、東京シンフォニエッタの演奏会で日本初演された「ネクスト・ステップ」も含めて) を聴くと、音色や持続の軽やかさが一層際 立ってきたように思う。Staudが、若々しく元気いっぱいに見えて、その実「ヨーロッパ前衛音楽」を非常にまじめに引き継いでいるのとは対照的 で興味深い(望月が不真面目だというのではない)。特殊奏法や特殊な楽器(縄跳びの縄を振り回す音は、ある種新手のウィンドマシーンか)を多用したり、音 色に対する望月の基本的なセンスは変わっていないと思うが、より以前の作品と比べても、からっとした感じが強くなった。これまでに聴いたことのある望月の 管弦楽作品と比べて、オーケストレーションはかなり整理され、透明度が高くなったという印象。既に多くのオーケストラ曲を手がけてきて、書き慣れてきた、 ということもあるのだろう。曲の後半、ちょうど僕の席から真正面に見える2階に配されたグループが、オルゴールをならす。そういえばRebecca Saundersもよくオルゴールを使うが、ただしSaundersの作品では何の曲かはっきりわかることがあるし、オルゴールの音から連想される何かが 重要で あるように感じられる。一方、望月の作品ではいくつもの音が重なって何の曲かはっ きりわからないようになっており、あくまでも音色的な素材として用いられている。オルゴールが出てくる部分の長さもSaundersと比べてかなり短い (ちなみに、僕の席から見たところではオルゴールの一つが止まら なくなってしまって、演奏家が何とか止めようと苦心していたようだった。普通の楽器ならあり得ないような事故である)。また、終わり近く、同一の ピッチによる短音(ピチカートやスタッカート) が楽器群の間をゆっくりと受け渡されてゆく箇所では、Matthias Spahlingerの「passage-paysage」を思い出した。Spahlingerの場合、弦楽器群のユニゾンによる間歇的なパルスがかなり 長い時間続くが、曲全体がかなり反復的であり、徐々に楽器群がずれてゆくプロセスがはっきり聴き取れる。「クラウド・ナイン」も確かに反復的な楽想は多い が、「passage-paysage」ほど徹底してはいないので、この部分が全体に浮いてしまった感があり(こうした歪んだフォルムは計算済みだとは思 うが)やや冗長に感じた。ただ、これは演奏にもよるのかもしれない。いずれにせよ、現代のオーケストラ作品は、演奏の度に非常に違ったものに聴こえること が多いので、是非再演を期待したい。

休憩を挟んだ後半は、先日の「武満徹作曲賞」最終選考演奏会を思い出すような内容だった。後半演奏された2曲とも、美学的にも音響的にも、基本的には後期 ロマン派や20世紀前半のオーケストラ曲と大きく違わない。より一般的なオーケストラ曲のコンサートで聴衆が「現代音楽」として受け入れられ るようなスタイルが、まさにこれなのだろう。
後半一曲目、リヒャルト・シュトラウスを想起させるタイトルを持つ石井真木の遺作 「幻影と死」。ダイナミックな表現は60年代や70年代の彼の作品から一貫しているが、音響はまさに後期ロマン派という感じ(雅楽や能楽を 模倣したと思われる部分もあるし、もうちょっと情念的。そういうところが大河ドラマの音楽を想起させる)。というか、ダイナミックな表現がそのまま で何の違和感も無く響きがロマン派に移行している 点から、石井真木という作曲家の音楽性が表面的な技法が変わっても常に一貫していた、ということと同時に、彼は基本的には一貫して後期ロマン派だったので は、ということに気付かされる。昨年、読響が初演したときには一部カットされたというが、確かに冗長な印象があった。
コンサート最後は、この日指揮を行ったJames MacMillanの「イゾベル・ゴーディーの告白」。恥ずかしながら、MacMillanの作品を初めて聴いた。宗教改革期のスコットラ ン ドにおける魔女狩りをテーマとした、劇的 な作品。このスタイルに適した無駄の無い効果的なオーケストレーション。弦楽器群によるモーダルなパッセージ(全体 的な響きはどことなくシベリウスを思い出す。家に帰ったらシベリウスの交響曲第4番のスコアを見直そう、と思った)の中で、所々素速いかきむしるような音 型が埋め込まれた部分は面白い。こうした叙情的な旋律や響きに、アグ レッシブな打楽器や金管楽器が畳み掛けてゆく(こういうところが「現代音楽」的だと思われるのだろうか)ところに、ちょっとあざとさを感じた。

(更新2004/7/7)


○○論、のようなもの?/indexへ戻る

Homeへ戻る