田中吉史のページ/様々なメモ


向井山朋子「pianomie」@金沢21世紀美術館

この春、東京から金沢に引っ越した。来てみると、やはりさすがにこちらは現代音楽のコンサートはとても少ない。オーケストラアンサンブル金沢も、レジデントコンポーザーの新作初演の時以外には、基本的には現代物は取り上げないようだ。とはいえ、注意深く見ていると、幾つかのスポットでは現代音楽のコンサートやイヴェントが行われていることに気づく。例えば、金沢21世紀美術館では、コンスタントに現代音楽(特に実験的な傾向のもの)のコンサートなどが行われているし、つい先日も甲斐史子(vln)と大須賀かおり(pf)のユニットRoscoが北陸ツアーで立ち寄って、ライヴを行ったりしている。そのほかにもよく見ると散発的に新しい音楽を取り上げるコンサートが行われているようだ。ただ、こちらに来てから思いの外忙しくて、なかなか聴きに行けないのが残念。

金沢に来て初めて音楽を聴きに行ったのは、金沢21世紀美術館で行われたピアニスト向井山朋子の「pianomie」と題されたライヴ(2005年7月23日)。この美術館の企画している「ベーゼンドルファーを弾く」というコンサートシリーズのひとつ。1時間くらいのプログラムで、会場は美術館地下にある多目的ホール・シアター21。
最近の向井山は、伝統的なコンサートのスタイルそのものから離脱したような音楽のイヴェント(何と言っていいかわからないので、とりあえずこう言っておく)の形を模索している、ということは資料を見たりして知ってはいたのだが、それに直に接する機会はなかなか無かった。それがこの地方都市に移住して初めて叶った。

「pianomie」は、スウェーリンクからキリアキデス、リームに至るまでの様々な既存のピアノ曲の断片を、向井山の即興によってつないでゆく「コラージュ作品」(当日配布された向井山のプログラムノートによる)。現在、既に多くのピアニストが現代音楽のみをプログラムしたコンサート、リサイタルを行ってるが、その殆どは、既存のピアノ曲や作曲家に委嘱した個別の作品でプログラムを構成する、という方法をとっている。それは、演奏される作品自体は新しいけれども、枠組み自体はある意味で伝統的なピアノ・リサイタルの形式に添っているとも言える。
「pianomie」は、そうしたピアノ・リサイタルのあり方とは非常に異なっている。既存のピアノ曲は断片化され、モーフィングされ、一つの大きな流れのなかに浮かんでは消える漂流物のようだ(当然、一曲終わるごとに拍手、ということもない)。とはいえ、例えば松平頼暁作品にしばしば見られるように、既存の作品が構成要素の一部として完全に分解されている、というわけでもなく、それ自体の「顔」のようなものははっきりと残っている(個々の作品が聴きとれる時間が松平作品よりもずっと長い、ということにもよるだろう)。想像するに、これはDJが様々なナンバーを巧みに繋いでゆき、一つのショウを構成してゆくのに近いのかもしれない。

リームのピアノ曲第7番の叩きつけるような響きで始まる。オクターヴ、9度、7度を組み合わせた凶暴な和音が続き、それがベートーヴェンのとりつかれたようなリズムに変貌する。
様々な断片がどのようにフリーインプロヴィゼーションで接続されるのかはよくわからないが、音階状の音型が繰り返されるうちにそれがリゲティになってしまったり、あるいはその運動が一瞬セロニアス・モンク風のパッセージをへてまた様々に変容していったり。すべての原曲を知らないが、あたかも自由連想のように様々な音楽の断片がつながれてゆく様はとても興味深い。
ここではMichiel Mensinghと向井山によるサウンドトラックも取り込まれているが、なかなか現れない。それが登場するのは蕩々たるピアノの流れが一段落し、ショパンの感傷的な旋律が始まったとき。まるで事故でも起きたかのように唐突に中断するように大音量で挿入される。
ラヴェルのピアノ協奏曲2楽章は、たっぷりとルバートをかけて演奏されるが、オケ付きではなかなかこういうルバートは聴けまい。この曲を再発見した思いがする。
佐藤聡明におけるピアノの中低音域でのトレモロで、ベーゼンドルファーならではの深々とした響きを味わうことが出来た。しかし向井山は聴き手をピアノの響きの中にたゆたう状態で終わらせることはしない。シューマンのダヴィット同盟舞曲集に移行し、途中から静かに現れるノイズが徐々に豪雨のような音となり、ついにはピアノは完全にかき消されてしまう。

聴き終わってみて印象的だったのは、向井山の醒めた感覚である。リームの途中で唐突に現れる長い沈黙、先に述べたようなクラブミュージック風の断片の挿入、あるいは佐藤聡明の瞑想的な雰囲気では終わらず、再び運動を始めてノイズでかき消してしまうようなやり方によって、聴き手を響きの中に、あるいは(既存の)音楽の流れのなかに埋没させることを避け、どこか居心地の悪さを仕掛けていく。こうした居心地の悪さは、最近の現代音楽のコンサートではなかなか味わえなくなってきた。 向井山は、譜面台の横に置かれたモニターでタイミングをチェックしながら、紡ぎ出される音楽に身を委ねることなく、計画された時間通り、非常に冷徹に演奏していった。その冷静な姿も、「醒め」の印象を強めたのだろう。



(更新2005/11/23)


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