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「中村仁美 篳篥リサイタルシリーズ 葦の風No.3〜ひちりきwith 打楽器/笙〜」の感想


2004年も(数えていないが)色々なコンサートに行った。その締めくくり、と言うつもりでもなかったのだが、この年の最後は中村仁美・篳篥リサイタル (2004年12月26日、東京オペラシティリサイタルホール)。中村仁美の演奏は、多分伶楽舎のコンサートなどでは聴いているはずだが、ソロで聴くのは 初めて。

会場の入り口で、この日の委嘱作曲家であるゲアハルト・シュテープラーとクンス・シムとばったり会う。クンスとは一昨年、井上郷子のリサイタルで彼の作品 が特集された時に東京で会ったが、ゲアハルトとは多分1998年にダルムシュタットで会って以来だから、本当に久しぶり。会場では、Schwazで会った 箏の後藤真起子さんや川村京子さんとも久しぶりに再会。

さて、この日は、最初と最後の古典を除いてすべて委嘱新作というなかなか充実したプログラム。
一曲目は雅楽古典「盤渉調調子」。篳篥の無伴奏ソロを聴くのは初め。 その堂々たる音量に印象づけられる。きわめて柔軟なポルタメントの合間を縫うように、モードの構成音が聴こえてくる、という感じ。雅楽の響きは時として非 常に粗野でアグレッシブだが、その特徴を支えるのが篳篥の野性的な響きだということを実感。

二曲目、増本伎共子「古代歌謡の旋律によるパラフレーズ」。冒頭、 (おそらく原曲の)モーダルな旋律(ミドラレー、という印象的なフレーズ)から始まる。この楽器を知り尽くした感じの作品。篳篥の表現の多様性に驚く。途 中、非常に素早いパッセージやかなり激しい跳躍音程を交えた部分(ほとんどオーボエのような軽やかさ)や(オーボエではまず不可能な)非常に幅の広いグ リッサンドなど、見せ場の多いヴィルトゥオーゾ的な作品。その意味では、非常に西洋的な発想の作品ともいえる。冒頭のような歌謡的な楽想が回帰し、ふと途 切れるようなエンディングはちょっと意外な感じもしたが、なかなか悪くない終わり方。増本作品を今まであまり聴いたことがなかったが、これからはちょっと 積極的に聴いてみようとも思う。

三曲目は神田佳子「ひつじのつむじ」。ウィンドチャイムや貝鳴子を身 につけ、リンや篳篥をならしつつ、客席後方から登場する中村と神田(打楽器)。ステージのあちこちに、白い毛皮の上におかれた篳篥をちょっとずつ吹いて、 それに打楽器が即興的な感じで絡む出だし。その後、打楽器のゆったりした反復的な伴奏に支えられた部分や、中近東の民族音楽を連想させるダンスのリズムに 乗って、まさしくダブルリード系の民族楽器のような旋律を吹くクライマックスをへて、再び静まり、退場、暗転、という展開。神田らしい遊び心にあふれたエ ンターテイニングな作品。ただ、冒頭と終結を対応させるアイディアはわかりやすいが、そういう枠にこだわるあまり、クライマックスからエンディングへの転 換はすごく不自然になってしまった感あり。終演後、友達と話していて、篳篥の音がひつじの「メエー」を表していたのだということに気がついた。演奏中は全 然そんなこと思いつきませんでした。残念!

休憩後はがらりと変わったプログラム。前半、僕のすぐそばに座っていたお客さん同士が「面白いね」「楽しいね」と言葉を交わしていたのが、後半はぐっと押 し黙っていたのが印象的。
まずゲアハルト・シュテープラーの「]LIFE[」。笙(宮田まゆ み)と篳篥が交代で演奏し、もう片方の奏者は終止無声音で古代ギリシャ語によるサッフォーの詩の断片を読む。曲の後半になって二つの楽器が同時に演奏し、 グラスチャイムが鳴らされる。鋭いアクセントを伴う笙の和音や、篳篥の非常に太い旋律線が残す余韻が、ホールの天井に消えてゆく様子を味わう。シュテープ ラーの音楽は、骨太で、同時に非常に繊細な側面もありながら、しばしばきわめて攻撃的ですらある。しかし久しぶりに聴く彼の作品は、そういう強い主張と同 時に、どこか内省的な印象もあたえるものだった。

続いてクンス・シムの「孤独、慰め」。ステージ中央に、ひょろりと幹 ののびた盆栽が置かれ、左右に篳篥と笙が配される。演奏家が任意に選んだ一つの音(とはいえ笙は和音だったが)が、あらかじめ作曲者によって指定されたタ イミングで発せられ、長く保たれる。篳篥の低音域の弱音は、篳篥といわれるとすぐ思い出すようなあの華やかな音色とは全く違う、籠もったような響き。篳篥 の新たな側面に気づかされる。曲の終わりでは、突然笙奏者が立ち上がり、盆栽の枝をすべてむしり取ってしまう。同じ響きが間歇的に続いていた定常的な状態 が、ここにきて突然カタストロフを迎える。終演後、クンスにそう言ったら「カタストロフというつもりはないけれど、何らかの変化が欲しかった」ということ だった。

プログラムの最後は雅楽古典「蘇莫者音取・序・破」。笙、篳篥、竜笛 (八木千暁)の三人による演奏。こういう小さい編成の演奏は初めて聴く。弦楽器や打物を含まないので、パルスをいっさい含まず、また高音域に集中した響き の帯の中から、旋律が浮かび上がり、結果としてある種の律動が生まれる、という状態は非常にエキサイティングだった。

アンコールに中村は「もういくつ寝ると、お正月...」を演奏。後半のプログラムで醸し出された緊張感が一気に緩んでしまったが、逆にこういう旋律が演奏 されることで、篳篥という楽器の持つ柔軟さとある種の不安定さ(それがこの楽器の大きな魅力)を実感させられたのだった。

僕は最近、非常にむき出しで粗野な響きに関心があって、そういう面での興味が充分に満たされたコンサート(もちろん、そういう響きだけが良かったわけでは なく、外にも印象的なところはとても多かった)。というわけで、満足して新年を迎えました。


(更新2005/1/20)


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