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アンサンブル・ノマド第22回定期演奏会

ここ2年ほど予定が合わず行けなかったアンサンブル・ノマドの定期演奏会を久しぶりに聴く(2004年3月16日、東京オペラシティ・リサイタルホー ル)。以前、毎回のように通っていたときと変わらず、コンセプトの明確な選曲と危なげない安定した演奏に、一聴衆として大満足。

1曲目はヴィラ=ロボスの「ショーロ形式の五重奏曲」(fl:木ノ脇 道元, ob:成田恵子, eh:南方総子, cl:菊地秀夫, fg:塚原里江)。そういえば以前はこうしたスタイルの作品はノマドの定演では聴かれなかったように思うが、この2年の間にレパートリーが広がったのだろ う。無理なく効果的なオーケストレーションを聴きながら、ヴィラ=ロボスは楽器法の達者な作曲家なのだなと実感。かなりハードな曲だと思うが、爽快な演奏 だった。
2曲目は望月京「雨、蒸気、スピード」。ヴァイオリン(野口千代 光)、チェロ(大友肇)、コントラバス(山本修)という変則的な弦楽三重奏(指揮は佐藤紀雄)。冒頭、チェロとコントラバスの低音の響きに、ヴァイオリン が絡んでゆく。ノイズを多分に含む微妙な音色変化は望月独自の世界。もう10年も前の作品だが、この頃すでに彼女の響きが確立されていたのだ。演奏も、京 ワールドを充分に実現していたと思うけれど、作品全体の方向性のようなものがもう少し明確な解釈もあり得ただろう。新たな音響素材が導入される箇所では、 音楽の流れにもう少し大きな変化があっても良かったかもしれない。
3曲目は内藤明美「Mindscape - 4つの詩的イメージ」(fl: 木ノ脇道元, ob:成田恵子, vln:野口, vlc:大友 gt:佐藤,黄敬)は、この日のプログラムの中では最も「描写的」なものだったかもしれない。以前聴いたいくつかの内藤作品とは、だいぶ印象が違う。以前 からもどこか武満に通ずる和声が用いられていて、この作品でも基本的には晩年の武満を連想する調性的な響きだが、むしろもっとはっきりと「ロマンティッ ク」な作品。こうした響きの作品も、ノマドの定演で取り上げられるようになったのかと、ちょっと意外だった。

休憩を挟んで、4曲目はサーリアホ「ノアノア」。木ノ脇道元のフルー ト独奏に電子的な変調(松沼康一)がかけられる。この作品ではフルート奏者が吹きながらフランス語も発音する。木ノ脇の男声による演奏(当たり前か)は、 CDに収録されたカミーラ・ホイテンガの声とは違った妖しさのあるものだった。
5曲目の武満徹「ウェイヴズ」は、ほとんど全く何の期待も持っていな かったが、非常に興味深い作品だった。技巧的なクラリネット独奏(菊地秀夫)に、ホルン(萩原顕彰)と2つのトロンボーン(奥村晃、野々下興一)、大太鼓 (宮本典子)が持続音主体の背景を作ってゆく。この楽器の組み合わせもかなりユニークだし、ホルンをタムタムに共鳴させたり、トロンボーンを小太鼓のスネ アに共振させたり、といった音色上の仕掛けも(今となってはありきたりのようで)興味深いものだった。曲の後半、調性的な持続音が続く箇所は、この時期 (1976年)の武満らしい。金管楽器による波の音を模したと思われる息音が長く続き、曲が終わるが、息音の登場はちょっと唐突な感じもした。これは演奏 のせいというよりは、作品の構成上の問題かもしれない。いずれにせよ、1970年代半ばまでの武満作品を再発見した思い。

二度目の休憩を挟んで、最後はジェフスキーの「カミングトゥギャザー」。 総勢19人のほぼフル編成の室内オケのサイズでの演奏(前出の演奏家と、vla;甲斐史子, keyboard: 中川賢一, 稲垣聡, b-gt:佐藤洋嗣, narr: 和田礼)。僕がこれまでに聴いた最大編成の「カミングトゥギャザー」である。ステージを埋め尽くした演奏家たちから立ち上るジェフスキーの骨太な音楽は圧 巻。ただ、このように任意の楽器で演奏可能な作品を大編成で演奏する際には、楽器の組み合わせのバランスをいかに調整するか、という点が大きな問題になっ てくると思う。例えばオーボエやイングリッシュホルンの音色はなかなか他の楽器とは混ざりにくいし、アコースティックギターもほとんど聞こえない。全体が 均質に解け合ってマッシヴな響きを作る、というほどの音圧はなく、個々のパートが明確に聞き分けられるような編成でもないので、響きの面ではやや不満が 残った。とはいえ、今シーズンの最後を締めくくるのにふさわしい高揚感はあった。

さて、客席はほぼ9割ぐらいの入りだろうか。客層を見ると、作曲家や演奏家も見かけるけれど、一般の音楽愛好家が多いようだ。最近、ノマドは定期会員制度 を設けているので、通し券を買って毎回通っている人も多いのだろう。現代音楽のコンサート、というと、作曲家の知り合いか業界関係者だけが集まるような雰 囲気が多かったが、客は来るところには来るものだと実感。
大きなCDショップの現代音楽コーナーに行くと、かなりいろいろなCDが入荷しているし、たいていほかにもお客がいてCDをあさっている。またアマチュア の吹奏楽や合唱団で演奏される曲目に、結構現代的な作品が多いことを考えると、潜在的に現代音楽の聴き手は増えているはずだ。そうした聴き手がコンサート に足を運ぶとなると、まず演奏家が魅力的かどうかということが決め手になるのではないだろうか。ノマドの聴衆も、普段から熱心に現代音楽ばかりを聴くマニ アよりは、現代音楽は普段あまり聴かないがノマドなら欠かさず行く、というような人が多いのではないかと想像する。それはそうだろう、テーマのはっきりし たプログラムと、非常に安定した高水準の演奏なのだから、チケットを買って損はない。
ノマドのステージを見ても、演奏家たちが和気あいあいと演奏を楽しんでいるのが感じられる。これは近藤譲が「ムジカ・プラクティカ」を設立したときの理念 が着実に実現されつつある姿だと言っても良いだろう。現代音楽が、一つの当然の音楽の形として自然に楽しまれている。逆に言えば、その分だけ未知のものと 出会う衝撃は薄らいできたということでもあるかもしれない(もちろん、それが悪いことだと言うつもりは全くない)。そして、そうした現代音楽を支えるの は、作曲家ではなく演奏家なのである。作曲家が主導的な担い手でなくなってきたとしたら、作曲家のなすべきこともこれからは変わってくるに違いない。それ がどのように変わってゆくのかはまだよく見えないけれど。

(更新2004/3/16, 3/17補筆)


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