田中吉史のページ/様々なメモ
鍵盤ハーモニカの冒険2004「これからのPブロッ」の感想
僕は以前から鍵盤ハーモニカやアコーディオンなど金属系のリード楽器の音色が好きで、一時期アンサンブル曲の中で楽器奏者に持ち替えでピアニカを吹かせ
る、というようなことに凝っていたこともあった。
鍵盤ハーモニカによるアンサンブル、Pブロッの演奏も是非一度ライブで聴い
てみたいと思っていたのだが、予定が合わなかったりうっかりしている間にその機会を逸してきた。
Pブロッのメンバーでもある兼業音楽家のしばてつ氏
(考えてみれば僕も兼業だ)とも随分前から知り合いなのだが、以前から何度もコンサートのお誘いを受けていたのに、こちらもなかなか行けずじまいであっ
た。
そんなわけで、10月23日(土)のPブロッのコンサート(門仲天井ホール)は待ちに待ったチャンスの到来、という感じだった。
鍵盤ハーモニカの音色は、そばで聴くと実は結構アグレッシヴで耳障りなところもある。録音で聴くとなおさらそのアグレッシヴさが際だつようなところがあ
る。また、Pブロッの自主制作CDも楽しいアルバムなのだが、録音してしまうと、ちょっと平板な感じになってしまうのはやむを得ないところだろう。その
点、ライブでは、今回はさりげなくPAが入れられていたけれど、音の質感や距離感もちょうど良い具合。やっぱりライブでなくちゃね。
プログラムは、しばてつ「Binaire」、鈴木潤「All blues」「本日のさんぽ」、吉森信「それぞれの植木鉢」、しばてつの新作「リトルネロ練馬」、休憩後、林加奈「犬が行く」、いろいろメドレー、野村誠編曲の映画音楽「ディア・ハンター」「ニュー・シネマ・パラダイス」(こ
れは名編曲!)、野村誠の新作「あたまがトンビ」、しばてつ「中近東のコアラリス」。アンコールに数曲。
Pブロッの演奏をライブで聴いてまず思ったのは、鍵盤ハーモニカ・「オーケストラ」というよりは、バンドという感じだ、ということ。楽器の構え方、吹き方
はそろえてはいないようで、各メンバーが一番やりやすいようにやっている。メンバー一人一人の個性を壊さず、一人ひとりのノリを消さないようにして、みん
なで演奏する。もちろん、クラシックの弦楽四重奏や日本の合唱コンクールみたいな統率されたアンサンブルも可能なのだろうけど、あえてそうしないのが、P
ブロッの持ち味でもあるのだろう。この日のコンサートでは、例えば伴奏が厚くなりすぎて旋律がきこえにくくなったり、別の音域に置かれた対位旋律がもっと
きこえた方がもっと音楽が生きるのではないかと思うところもあるにはあったが、無理矢理コントロールしようとすると持ち味を壊してしまう危険もある。難し
いところだ。
新作はいずれもこの楽器を知り尽くした感のある聴き応えある作品。
しばてつ「リトルネロ練馬」は、ねりま、ねりま....という単純な
フレーズによって非常に巧みに構築された作品。リズムセクションがあるわけではないが、一貫したビート上に展開する。シンプルなフレーズをとことん使って
ゆく手法にどことなくベートーヴェンの「運命」を思い出す。ねりま、ねりま....が徐々にずれて積み重なる冒頭部分や、フーガ、途中テンポが落ち着いた
感じの箇所(地震が来たせいでテンポが緩んだわけではないとおもう)での和声の重なり合いなど、印象的。
野村誠「あたまがトンビ」は巧緻なしば作品とはまた対照的で、融通無
碍な時間の作り方が魅力的。曲の前半、独特なグルーヴ感にストラヴィンスキーを連想する。終結部の長い和音の重なり合いから出てくる深い呼吸に吸い込まれ
る。鍵ハモのフットワークの軽さを生かしたリズミカルな部分も良いが、金属リード系の素朴で荒々しくもある響きをじっくり聴くのも好きだ。
ところでこの日の会場で、野村誠の著書「路上日記」が販売されているのを発見。しばらく前から探していたのだが、ようやく入手、帰りの電車で一気に読んで
しまう。付属CDに、路上での野村たちの演奏が収録されている。それを聴いて、路上などのオープンな空間で、細かいことにとらわれることなく、その場でう
まく聴き手を乗せてゆくフットワークの軽さが、たぶん野村とこのバンド(とあえて呼ぶ)の音楽の一つの原点なのだろうと想像する。演奏の細部について、こ
こはどうだと詮索しながら聴くのは、たぶんコンサートホールのような閉じた空間だから可能になるのだろう。
この日のコンサートも、子供料金が設定されていたし、実際に子連れで来る人も少なくなかった。疲れて寝てしまった子供を座布団の上に寝かしておけるコン
サートなんて、なかなか無いよね。そういう開放的な雰囲気も良い。
こういう開放的な雰囲気が生まれるのは、やはり鍵盤ハーモニカという楽器のキャラクターも強く関わっているに違いない。日本で義務教育を受けたことのある
人なら、多分一度は触ったことのある楽器で、習得するのに多くの投資が必要な訳ではないし、ヴァイオリンやピアノのように、演奏できることがちょっとした
ステイタスになるような気取ったところや、聴き手を圧倒するような超絶技巧とは無縁な(少なくともそう見える)親しみやすさがある。学校教育で誰もが触れ
るもう一つの楽器にリコーダーがあるが、リコーダーがすでにクラシック音楽の演奏において一定の地位を確立しているのに対して、鍵盤ハーモニカはあまり認
知されていないようなところもある。逆に言えばそれだけ(ある種の)権威からは自由なわけで、そういう身軽さも、鍵盤ハーモニカという楽器の魅力の一つだ
ろう。
ところで、この日のコンサートのもう一つの個人的な収穫は、野村誠のパフォーマンスにライブで接することができたことだ。随分前、大井浩明がいろいろなコ
ンサートの企画を考えて、企画書を送ってくれた時にも、僕の曲と野村の曲とが入っていたり、1998年に大井浩明&向井山朋子デュオがオランダで僕の新作
を演奏してくれた時、野村の作品もプログラムされていたりして、直接の面識はなかったが、間接的な形では幾つかの接点があった(そういえばこの日のコン
サートで、久しぶりにAndrew
Melvinに会った。彼とも共通の友人だったのだ)。また他の音楽家による演奏は何度もきいたことがあったが、なかなか彼自身の演奏に触れることが無
かった。僕自身とは活動のスタンスはかなり違うし、こまめに彼の活動をチェックしてきたわけでもないが、それでも気になる存在ではあった。
幾つかのCDを聴いたり、最近開設された野村のホームページを見て
思うのは、彼は輝かしい孤立の中にある芸術家ではなく、媒介者としての音楽家であるということ。人々の中にとけ込んで、そこに音楽的な体験を生み出させる
媒介者。子供や老人、音楽療法と関わり、演奏家と共同作業によって作曲してゆく活動は、孤立した作曲家が、聴き手の精神をコントロールして、自分のメッ
セージを一方的に送り込むという音楽のあり方(ヨーロッパ芸術音楽のみならず、現代の多くの音楽産業はこの図式の上に成立している)とは対照的である。誰
でも一度は手にしたことがあるだろう鍵盤ハーモニカを使うところにも、彼の音楽が決して他人を寄せ付けない孤立した芸術を目指してはいないことがあらわれ
ているように思う。
とはいえ、彼がいわゆる現代音楽に全く関心がないかというと、彼の日記を見る限り、決してそんなことはないようだ。これまで芸術音楽の外にあった幼児教育
や音楽療法、専門家でない人たちとの共同作業などの様々なプロジェクトは、近代芸術音楽から脱却するための試みでもあるだろうし、現代の、あるいはこれか
らの音楽のあり方の探求でもあるだろう。
などと書いてしまうのは、僕が結局のところ伝統的な「芸術音楽」制度の中にどっぷり浸かっているからに過ぎないのかもしれない。野村自身はあくまで自然体
に、自分の音楽をやっているだけで、彼にとって制度の問題は本質的なことではないのかもしれないとも思う。
そういえば、柔軟で屈託が無く、それでいて思索性を感じさせる野村の音楽には、今イタリアに住んで、クラシック音楽や現代音楽の指揮と作曲を行っている杉
山洋一の音楽と、(全く違うタイプの活動をしているにもかかわらず)どこか強い共通点があるように感じる。この点はまた別の機会に掘り下げて考えてみた
い。
(更新2004/11/14)
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