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サントリーホール国際委嘱シリーズNo.29「サルヴァトーレ・シャリーノ」の感想

1990年代以降、最も影響力のある作曲家の一人と言って良いサルヴァトーレ・シャリーノが、ついに来日した(2005年8月27日、サントリーホール大 ホール)。これまで僕の知る限り二回ほど彼を日本に招待するという企画があったのだが、いずれも実現しないまま終わっていた。
そんなわけで、長い間来日を待たれていた大作曲家だったのだが、ホールにあらわれたシャリーノは、威圧するようなオーラを発揮する巨匠、という感じではな く、中くらいの背丈のごく控えめな印象のふっくらした紳士だった。

一曲目はピアノとオーケストラのための「ハリー・パーチ以降の傾向 Il clima dopo Harry Partch」(2000)。
木管楽器群の秘やかなビズビリアンドに弦楽器群の下降型グリッサンド、ピアノの短いクラスター状の短い和音、というテクスチャーが、鋭い木質打楽器の一打 によって断ち切られ、小休止ののち繰り返される、というパターンから開始する。少なくとも目で見ている限り、これと言った特殊な奏法は用いられていないの に、全く聴いたことがないような響きにきこえる。目の前で弾かれているのは間違いなくヴァイオリンであり、確かにヴァイオリンの音なのだが、何故かヴァイ オリンのような気がしない、という不思議な感覚。
途中何度も沈黙が挟み込まれるが、その沈黙の合間に、微かに何かが鳴っていて、多分、クラリネットの重音なのだが、はっきりそうだとはわからず、思わず聞 き入ってしまう。
曲の後半、独奏ピアノの短いパッセージに重ねられたチェレスタのエコーも、決して斬新な組合せではないのに、とても新鮮に響く。様々な印象的な瞬間に満ち た作品。この一曲だけでコンサートが終わってしまっても、満足と言うくらいに充実した体験だった。

二曲目は、ルイジ・ノーノ晩年の代表作「A Carlo Scarpa architetto, ai suoi infini possibili」(1984)。
微妙にずれたチューニングのオーケストラは、決して混ざり合うことがない。個々の楽器は生々しく、粗々しいまま、そこに置かれている。沈黙の合間に、うな るような響きが連なってゆき、時折8人(?)の奏者によるトライアングルの音が持続を断ち切ってゆく。聴くものに強い緊張を強いるところもあり、おそらく10分 が限界であろう。

これまでに聴いたことがないほどに充実した前半を聴き終えた後は、否が応でも期待が高まってしまうし、逆に後半大コケだったとしても、それはそれで極めて 興味深いといえるが、幸い(?)期待を裏切られることのない後半だった。

後半一曲目、ステファノ・ジェルヴァゾーニの「導音 Sensibile」は、 彼が20台の頃の作品(1989)。最近の彼の音楽はよりseccoな所があるが、この時期の彼の音楽は、透明な音色によって作り出される持続感が一つの 特徴。曲の前半、ヴァイオリンソロの中音域でのスタッカートのパルスを聴いて、この日初めて普通の楽器の音を聴いたような気がした。
聴いていると、1990年代後半からの山本裕之の音楽が、このころのジェルヴァゾーニやジェルヴァゾーニと同世代のイタリアの作曲家たちから影響を受けて いるかを痛感させられる。影響、というよりは、これらの作曲家の間に共通してみられる美意識、というか。例えば、上行グリッサンドによって区切られる擬反 復、ワウワウミュートの開閉やフレクサトーンのふわふわした音響など、極めて特徴的な素材や構成法を聴きながら、Fontecから出ている山本の作品集に 含まれる作品群を思い出したのだった。(ちなみに、翌日、芥川作曲賞選考演奏会で初演された山本の最新作「モノディ共同体」は、彼がジェルヴァゾーニから の直接的な影響を脱したことがうかがえる作品だった。詳しくはまた別の機会に)。
曲の終わりは、金管楽器奏者たちがフレクサトーンを弓奏しながら退場し、第2ヴァイオリン奏者たちがジューズハープでパルスを演奏する。こういう色物っぽ い演出は、シャリーノの音楽には全然無い。

最後のシャリーノの新作「Shadow of Sound」は、一曲 目と較べて遙かにモノクロームな音響がつづく。
ステージ中央付近のフルート群の漂うようなビズビリアンド。弦楽器群が弓奏しているのだが、全くきこえない。たえず背景に流れる暗雑音のような響き(大太 鼓の表面をこすった時よりも全体に低い音色なので、どうやって作っているのかはよくわからない)。曲の後半では、弦楽器群のユニゾンによる短いグリッサン ドの音型が続く。普通、弦楽器がトゥッティで、かつユニゾンで演奏すれば、古色蒼然たる重い響きになりそうなのだが、全くそのようにきこえない。
最後の曲は、前の曲よりも言ってみれば地味なので、聴き手にはかなりの忍耐を強いる作品であろうと思うが、決して辛さを感じることはなかった。それは、こ の曲までの3曲で、自分の意識が音の細部に向かうようにチューニングされていたからではないかと思う。

7時開演のコンサートで、終演は8時40分頃だったと思う。やや短めのコンサートだったとも言えるが、逆に言うと、聴き手の耳が疲れ切ってしまう前に終了 するのも、非常に効果的であると言える。

大げさな言い方かもしれないが、このコンサートは僕にとっては久々の「至福の経験」だった。無数の印象的な瞬間があり、しかもそれは、音に飲み込まれるよ うな体験と言うよりも、そっと耳をそばだてて響きそのものに聴き入ることの歓びをじっくり味わったのだった。
今思うと、こうした体験の多くは、容易にその音源が特定できないような微妙な音が多用されていたことによってもたらされていたように思う。また、聴いてい た時にはあまり考えなかったのだが、そうした響きに対する意識をとぎれないように持続させるだけの、巧みな構成力(構築、というよりは)によるところも非 常に大きかったのではないだろうか。いやー、全く恐れ入りました。

考えてみると、シャリーノのオーケストラ曲を聴くのは殆ど初めてと言って良い(CDも室内楽は多数出ているが、大編成のものは、初期の 「Un'immagine di Arpocrate」と「Autoritratto nella notte」くらいしか聴いたことがなかった)。その意味でも非常に貴重な機会だったと言える。ただ、全体に、シャリーノは作風に大きな変化が無いため、 今後もし極端に彼のオーケストラ曲を聴く機会が増えるとすれば、この日のような新鮮さが失われてゆくかもしれない、という気も無くはないが、飽きるくらい までコンサートで聴いてみたいものだ。

振り返ってみると、この日のプログラムは20世紀末以降の現代音楽の大きな美学的潮流の存在を改めて確認させる物だったと思う。それは、作曲することの核 心を、既に用意された(中立的な)素材を構成してゆくこと(ちょうどセリエリズムのように)ではなく、響きそのものの発明に求めるような態度と言えばいい だろうか。
もちろん、響きそのものの発明、と言っても様々な違いがある。一つの代表的な例は、シェルシから始まってグリゼーに連なるような、多くの楽器の音を巧みに ブレンドしながら、一つの大きな響き(単に音量という意味ではなく)を作り出してゆくような、そういうタイプである。もう一つは、例えばノーノからシャ リーノに連なるような、多数の個別的な音の集まりとして音楽を捉えてゆくような立場、とでも言えばいいだろうか。これらの二つの傾向は、背景には共通の問 題意識があるように思われるけれども、結果として非常に異なった響きを作り出すに至っている。この日のプログラムは、後者の立場に立つ音楽で非常に巧くま とめられていたと言える。後者の場合、例えばオーケストレーションの意味合いも、抽象的な声部にバランスよく鳴るように色々な楽器を重ね合わせてゆくこと ではなく(こう考えると、グリゼー的なオーケストレーションの発想は、ある意味古典的な考え方の延長にあるとも言える)、無数の細部を作り出してゆくこと に変わってゆく。

演奏(Tito Ceccherini指揮、東京フィル、一曲目のピアノはNicholas Hodges)も、とても良かったと思う。現代音楽のオーケストラのコンサートでは、「ほんとうはこうなんじゃないかな」と想像しながら聴くことがとても 多いのだが、この日は全くそんなことがなかった。シャリーノの音楽をよくわかっている指揮者と、非常に柔軟なオーケストラとが非常に良く作用していたのだ と思う。


(更新2005/10/3)


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