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東京混声合唱団第194回定期演奏会「今世紀の曙光」


東京混声合唱団の定期演奏会(指揮:田中信昭、2004年3月20日、東京文化会館小ホール)に行くのも久しぶりだ。今回は、鈴木純明、鶴見幸代という対 照的な若手、中堅・北爪道夫、重鎮・間宮芳生の4人の作品、しかも4曲中3曲が新作初演というなかなか聴きごたえのあるプログラム。田中と東混は、これだ け多様な作品を、どれも的確かつ高度な技術をもってリアリゼーションした、期待を裏切らないものだった。

ところで、合唱曲に限らず、声楽曲(あるいは声を用いた作品)を書く際、作曲家が考慮しなければならない3つの側面があると思う。
(a)音響素材としての声。
(b)音響素材としてのテキスト(あるいは言語)。
(c)テキストの指し示す意味内容。(a)のみの場合も、そこから何らかの意味的なものを想起させられることがあるが、それは(c)とは区別される。
もちろん、これらの3つの側面は互いに独立なのではなく、密接に関連しているのだが、この3つのどれに焦点を当てるのか、あるいはどれを切り捨てるのか が、その作品の特性を決定する。例えば、クラシック音楽における歌曲の場合、テキストの内容が調や楽想などのテキスト以外の(音楽的)要素とも密接に関わ るように作られている。しかし現代においては、これら3つの間の関係は自明ではなく(クラシックの場合もそんなに自明ではないかもしれないが)、作曲家ご と、あるいは一人の作曲家の中でも作品によってこれらの3つをどのように扱うのかが大きく異なってくることがある。例えば湯浅譲二の合唱曲の場合、「アタ ランス」は(a)の音響素材としての声に特化されている。また「芭蕉の俳句によるプロジェクション」はこれらの3つのパラメータが密接に関連するものとし て扱われているが、テキストとテキスト外の音楽的パラメータとの関連は、例えばテキストの内容と転調の間の関係のように自明ではなく、個々の句の内容に応 じて殆どゼロから組み立て直される。

この日最初に演奏された鈴木純明「les cri vain」(初 演)はゲラシム・リュカの詩の原文(フランス語)と日本語訳をテキストとして用いているが、一度聴いた印象ではテキストの内容やその音響的な特性そのもの より、声を使っていかに音響を構成してゆくかと言った点に関心が向けられているようだ。子音によるホワイトノイズやグリッサンド、時に足踏みなど交えて、 非常に目のつんだテクスチャーが織り上げられてゆき、作曲者の構成力が遺憾なく発揮されている。この日演奏された作品の中ではある意味最も「器楽的」で あったと言えよう。
休憩後最初に演奏された北爪道夫の合唱とピアノ(中嶋香)による「オデオン」は、作曲者による言葉遊び的なテキスト(同じ音で始まる単語の羅 列、しりとり、などやいろは歌)が用いられており、既存のテキストを使わず、音楽の楽想に合うような形で日本語の単語が自由に選ばれている(作曲者の解説 によれば、むしろ言葉のもつ響きの面白さを探し出すようにして作曲されたということだが)。ここでは特殊な発声が用いられることはなく、上述の(b)に関 心が特化され、意味内容は完全に捨象されている。北爪らしい晴朗な響きのユーモアある作品だったが、逆に日本語の持つある種の平板さ故か、(音楽的にはい ろいろな起伏があるものの)全体として単調な印象を持った。
この日最後に演奏された間宮芳生「合唱のためのコンポジション第16番」(初 演)は、二つの小品からなる。一曲目は「古い口承の儀礼のことば」であり、二曲目は木島始の詩に基づく。一曲目は女声の低声域のうなるようなメリスマや超 高域の鳥の鳴き声のようなヴォカリーズ、男声の鋭いかけ声など、この作曲家がありとあらゆる声の特性を知り尽くしていることを実感させる、印象的な作品。 アンコールでもこの曲が演奏された。華やかな一曲目とは対照的に、二曲目は全体に和声的で、薄暗くやや濁りのあるこの作曲家の響きがよく現れて いた。バラエティに富んだ選曲のこのコンサートも、最後の間宮の新作に全部持っていかれた、という位の強い印象を残す作品だった。

さて、これら3曲がいずれもテキストの意味内容に対してある程度距離を置き、「声」や「音響」としての表現を重視する側面が強いのに対し、この日二曲目に 演奏された鶴見幸代「縞縞」(初演)は、テキストの意味内容に徹底的 にこだわった作品であったと思う(少なくともテキストを含んで全6ページ、他の作品の3倍のプログラムノートや、一聴した印象からそのように判断され る)。詩人の松井茂が、この作品のための鶴見との緊密なコラボレーション(こうした他ジャンルのアーティストとの本質的なコラボレーション自体、日本の現 代音楽では数 少ない)を通して書き下ろしたテキストは、松井がここ数年取り組んでいる純粋詩(一、二、三という三種類の文字だけで構成される)、 旧約聖書とその文体に基づいて貨幣経済の変遷について述べられる系列(「縞縞1〜5」)、通貨の足し算や海外市場で使われる言い回しなどから構成される系 列(「セ ルフポートレート」)の3つの系列からなる。鶴見はこれらのテキストに沿う形で、音楽をつけてゆく(あるいは音楽化してゆく)。純粋詩は音楽的なパラメー タに厳格に置き換えて音化される。ドル、円、ユーロについて叙述されたテキストに対しては、アメリカ大衆音楽、演歌、聖歌やルネサンスのマドリガルを対 応させる(カラオケのデュエットがでてくる箇所では、いかにも演歌的なメロディーにのせて、旧約聖書の文体で書かれた貨幣についての歌詞が歌われる。どう でも良いことなんだが、演歌のメロディーに色恋でない歌詞がつくとCMソングのようにも聞こえることがわかった ^^;)。その他諸々の手続きによって作品の細部が形成されてゆくが、それをあげてゆくと結局プログラムノートを引き写すことになるのでやめておく。
貨幣経済が合唱曲のテーマになった事自体が、前代未聞なのではないだろうか(もちろん、貨幣経済を描くことそのものが松井や鶴見の究極の狙いではないのだ が)。まずその事自体が、合唱曲(や芸術音楽)というものの制度的なあり方を浮き彫りにする。ここには、神戸のいわゆる「酒鬼薔薇」事件を扱った三輪眞弘 の「言葉の影、またはアレルヤ」とも共通したある種のきわどさがある。世界同時多発テロを題材にした作品はそこそこあるらしいのに、もっと身近な貨幣経済 や最近起きた殺人事件の加害者が題材になりにくいのはなぜだろう?
もう一点重要なのは、言葉が持つ音響的な側面は二次的に扱わ れているという点である。音響そのものよりも、言葉が記号的に指し示す概念を重視すること。演歌のメロディは貨幣経済とは直接結びつくものではなく、ここ では「円=日本」といった共通項でのみ結びつけられる。これらの音楽的素材は、歌詞の内容を置き換える一種の符丁である。符丁である以上、既存のものでな いと意味が通じなくなるので、必然的に既存の音楽(音楽様式)のコラージュとなる。かつて松平頼暁の「サブスティテューション」でもヴェルディのアリアの スタイルで「ホーホケキョ」と歌わせる、といった無関係なものを強引に結びつける試みがなされていた。しかしこの場合は意味的な解釈を拒むことで、徹底的 にナンセンスな、それゆえ純粋な音響的遊戯が目指されていた。鶴見の場合、一見それと似ていながら、方向は全く逆である。テキストの意味内容からは独立し たものとして、言葉や声の音響としての側面を探求することは、かつては一つの冒険であったが、今はそれが主流ともいうべきアプローチになった。鶴見の作品 には、そうした現代音楽の傾向に対する嫌悪があるのではないか、と感じるのは深読みのし過ぎ、かもしれないけど。
さて、そういう作品にどのような感想を述べれば良いのか、ちょっとよくわからない、というのが正直なところ。「し」と「ま」で音化された純粋詩や、たたみ かけられるようにあらわれる様々な様式の音楽は音響的に面白かったし、いかにもという感じの演歌も単純におかしかった。そんな具合に、純粋に音響として興 味深い部分も多かったが、そういう感想って、鶴見たちにとっては片手落ちなんじゃないだろうか。純粋詩を歌う別グループ(純粋詩隊)の音楽的な役割は、後 半で よく 見えなくなっちゃったとか、シュプレッヒコールの扱いがちょっと荒っぽいんじゃないの、といった(作曲上の)技術的な批評(野球解説と同じような意味で の)は的外れかもしれない。かといって、ヨーロッパ=ルネサンスや聖歌、ってのはちょっと図式的すぎて偏見を助長するんじゃないの、とか、貨幣経済がテー マだからといって日本とアメリカとヨーロッパで世界を代表するのはいかがなものか、といった概念的な側面に特化した物言いがどのくらい有効なのかもわから ない。(作品の題名や概念的なコンセプトに非常に鋭い批判を投げかける山之内英明氏ならどのように批評されるだろうか、と想像する。)いろいろ考えさせら れると言う点では興味深かったし、感覚的な喜びのようなものもあったが、徹底的に言葉の意味的世界にこだわった鶴見と松井の作品に対して、どのような意味 の言葉 をかえすべきなのか、ちょっと困っている。

(更新 2004/3/28)


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