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Vox Humana 第10回定期演奏会の感想
声楽アンサンブルVox Humanaの第10回定期演奏会に行く(2004年7月19日、東京文化会館小ホー
ル)。Vox
Humana(指揮:西川竜太)の演奏を聴くのは初めて。10数人のメンバーからなる小編成の合唱団で、大人数の合唱にあるような重量感のある表現には向
かないが、非常にクリアで透明感のある響きが魅力的。次回は是非モートン・フェルドマンの「ロスコ・チャペル」をやって欲しい、と思った。
それはともかく、この日のプログラムは、松本望、栗橋直子、山本裕之、名倉明子という4人の東京芸大出身の若手作曲家の作品によるプログラム。栗橋作品は
Vox
Humanaの昨年の委嘱作品、その他3曲は今回の演奏会のための委嘱新作。いずれも日本語の詩や短歌をテキストとして選んでおり、日本語のテキストをい
かに処理するのか、という問題について考えるのに丁度良い機会でもあった。
松本望と名倉明子の作品は、テキストの持つ意味内容に即して、あるいは意味内容の雰囲気といったものを重視して、それを音楽化しようとする方向にあったと
思う。松本の「12の声と打楽器のための3つの歌」の一曲目「不眠」
(詩:吉原幸子)は無伴奏合唱、二曲目「お医者ごっこ」(詩:新川和江)はマリンバを、三曲目「かごめかごめ」(詩:新川和江)はヴィブラフォンを伴う
(打楽器:石橋知佳)。いずれもテキストの意味内容やストーリーを音楽で実現することに主眼があるように感じた。作曲者も解説で書いているが、三つの歌の
間には必ずしも強い関連性は無い。三曲目はわらべ歌「かごめかごめ」が使われていて(三善晃の「響紋」を思い出した)、ほか
の二曲よりもずっと長い。長くのばされた子音sから始まり、詩のストーリーに即した劇的な展開を持ち、充実した内容だったが、その分、この一曲でも充分
だったのではないかという気もする。また、題名では「12の声」とあるが、少なくとも聴いた印象では、12の声部が独立したものとして使われるというより
は、より少ない数のパート(とその分割)という標準的な合唱曲の書法と変わらないような印象もあった。
名倉の「烏」は、中原中也訳によるアルチュール・ランボーの詩をテキ
ストとする。このテキストは「晋仏戦争での死者たちへの鎮魂歌であると言われている」が、こうした詩の性格をよく反映した暗く、重い雰囲気の作品。カノン
的なことばの処理、バスの重く響く低音域の声が効果的に使われている。
栗橋の「遠い冬の唄」は入沢静夫の詩をテキストとして用いている。入
沢の詩は、一行が13文字にそろえられ、その中に様々なことばの断片が反復的に一マス開けながら並べられている。栗橋の音楽も、こうした詩の書き方に対応
するかのように、全体に変化が少なく、全体にロングトーン中心の響きが淡々と続く。栗橋の作品はこれまで邦楽器のための作品を2曲聴いたことがあるだけだ
が、いずれも大きなコントラストは無く、似た性格の音響が淡々と長い時間続く、という印象があった。その意味で、こうした音楽の作り方は栗橋の好みがはっ
きり現れていると言えるだろうし、この日聴いた作品も非常に栗橋らしい作品だったと言える。こうしたスタイルの音楽では、聴き手の注意は作品全体のフォル
ムや持続よりも各瞬間の響きに向けられる。僕も、栗橋の音楽を聴きながら、Vox
Humanaの澄んだ響きを充分に味わった(それが栗橋の意図だったのかどうかはわからないが)。ただ、こうしたスタイルで書く場合には、個々の瞬間をい
かに(個性的に)作り込んでゆくか、あるいは聴き手の注意が個々の音(の細部)に向かうような仕掛けをどのように作ってゆくか、ということが作曲家に要求
されるとおもうのだが、その部分の興味が必ずし
も満たされなかったのが、個人的には不満だった(これは聴き方の問題でもあるのだろうが)。
山本裕之とは個人的に付き合いも長いが、彼の合唱曲は初めて聴いた。
俵万智の短歌をテキストとした「賢治祭」では、合唱は4人のソリスト
と8人のコロスとに分けて扱われる。ただしこれらが明確に対比されるというよりは、響きに微妙な濃淡を作るための仕掛けとして用いられているようだ。テキ
ストの抑揚は高低二音の交代に置き換えられ、一音節ずつ等拍で唱えられるように進行する(二音の間をグリッサンドでなぞったりして、濃淡が作られる)。こ
うした即物的なことばの処理は、短歌という意味内容だけでなくその形式が重要な要素である素材によく合っている。また、こうしたやり方をとることで、短い
スパンを取り出すとピッチが比較的制限された状態になり、テクスチャーが薄く、響きは一層軽やかになる(曲の前半では特に5度やオクターブが多用され、分
厚く時に濁った響きが目立ちがちな他の3曲とは対照的だった)。その意味でもこの日の作品の中で最も「軽さ」を感じた。ソプラノソロの跳躍の多い断片で終
わるが、こうした終わり方はとても山本らしい。ただ、この最後のパッセージに至るまでのプロセスが、あまりよく聴こえなかったのが残念。山本の音楽は、淡
々と限定された情報が反復されたり、あるいは実際にそこから様々な要素が付け足されたりして飽和し、その瞬間大きく転換する、といった進行をもつことが多
い。僕はそれを「情報の累積とその飽和による転換」と勝手に呼んでいるが、今回の作品とその演奏ではそうしたプロセスはあまり明確でなかった。もしかした
らこういうタイプの曲でなかった可能性もあるが。
ところで、僕が音楽のマテリアルとして今ひとつ日本語が好きになれないのは、各音節が殆どすべて子音+母音というセットで作られており、それを読み上げた
とき、滑らかである反面、リズム的には単調になってしまいがちである点にある。こうした日本語の欠点をどうカバーするのか、あるいはこの特性をいかに利用
してゆくのか、が日本語をテキストにした声楽曲を聴く時の僕自身の最大の興味である。この日の演奏会が終わって思い出してみると、全体に、等拍で一音節ず
つ(同じ高さで)歌わ
れる箇所が多かったような印象がある。あくまで「印象」なので、実際にどの曲にもこうした箇所が多かったのかどうかはわかないが、こうした箇所が出てくる
たびに「またか」と思ってしまったことはよく憶えている。これはテキストを聴き取りやすくするように、日本語の自然な読み方に添おうとした結果なのではな
いかと推測するのだ
が、それが結果として音楽的な単調さに結びついてしまっていたのではないだろうか(その点、山本作品はむ
しろそうした特性を逆手に取って意図的にそれを操作し、成功していたように思う)。例えば日本の伝統音楽におけることばの扱いは(よく知っているわけでは
な
い
が)、必ずしもこうした単調なリズムのものばかりではない。その意味でも、日本語テキストの扱いは、朗読した時のリズムに忠実でなければ歌詞が聴き取れな
いわけでもないし、いろいろなやり方がある筈なのだが。少なくとも、マテリアル(素材、あるいは端的に物質)としての日本語の特性をどのように扱うのか、
という問題について突っ込んだアプ
ローチをしている作品が少なかったのが、個人的には不満だった。
もっとも、こうした音楽の作り方は、Vox
Humanaという団体の特性を配慮したことの副産物でもあるかもしれない。比較的少人数で、音程も非常に正確で澄んだ響きを得意とするこの合唱団の長所
は、和声的な音
楽で最も発揮されるものだろう。この日演奏された作品では、あまり特殊な発声は使われず、むしろ標準的な発声で声部を重ねあわせて響を作るものが多
かった。言ってみれば、標準化された楽器のように合唱を扱う、というスタンスこそが、Vox
Humanaの持ち味を充分生かすものなのかもしれない。その意味で言うと、例えば間宮芳生の合唱曲で様々に使われるかけ声など、「歌う」のではない声の
扱いや、声に特有の粗い
響きは、かえってこの合唱団にはそぐわないのかもしれない。
ところで、どうでも良いことなんだが、この演奏会のチラシや次回の演奏会の予告を見ると、新作委嘱作曲家の名前の下にいちいち(○○賞受賞)とか(○○コ
ンクール第○位)などと書かれているのが気になった。多分宣伝以上の深い意味は無いのだと思うが(いや、深い意味が無い分なおさら)、世の中では、どんな
音楽を書いているかよりも、コン
クール受賞歴の方が重視されるのだな、ということを実感するのだった。受賞歴が殆どない作曲家にとってはつらい世の中である(溜息)。
(更新2004/7/26)
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