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ヘルシンキ大学男声合唱団コンサート

ヘルシンキ大学男声合唱団のコンサート(2003年10月3日・紀尾井ホール)に行った。あまり宣伝を見かけなかったのだけれど、このコンサートでは湯浅譲二の新作初演があったのだ。

あまり宣伝を見かけなかったとはいえ、合唱の関係ではそこそこ宣伝があったのだと思う。会場は7割ぐらいは埋まっていて、それなりの盛況。僕自身は合唱のことは非常に疎いので、この合唱団のことは名前くらいしか知らなかったのだが、合唱の世界ではかなり有名らしい。
プログラムはフィンランドの作曲家の作品、とくにシベリウスの合唱曲と、現代の作曲家の作品を中心としたバラエティに富んだもの。
一曲目の最初の音が響いた時に、この合唱団がタダモノではないことがすぐにわかる。総勢70名というかなりの大人数ながら、音程もリズムもびしっとそろっていて、人数がいるだけの量感はあるが、けっして濁った響きにはならない。地鳴りのようなバスも明瞭に聴こえる。どうでも良いことだけれど、音楽に合わせて一斉に黒い空洞が開いたりしまったりする様子(要するに口の動き)も、視覚的に面白かった(これも普段合唱のコンサートを聴きに行かないから持った感想)。

これは合唱曲一般に言えることなのかもしれないが、合唱曲においては、言葉は明確に聞き取られなければならないし、そのためにはアクセントなどが自然になるように旋律を設定しなければならない、といった通念があるように思う。(歌詞が聞き取られることが極めて重視されていることは、聴衆にプログラム冊子とは別に歌詞対訳が配付されることにも表れているのだろう。)その結果、一つの音節に与えられる時間は長過ぎてはいけないし、また短すぎても歌いにくいし、言葉も聞き取れなくなるだろう。
こうした制約のせいか、この日聴いた作品のほとんどは(特に普段合唱曲をあまり聴かない僕にとっては)音楽的にはやや平板で、コンサートがすすむにつれ、ちょっと飽きてくるような印象も持った。個々の作品にはそれなりの特徴があって、良く考えた上でプログラムされて入るのだろうけれど。もちろん、合唱曲を普段よく聴く人は全く違った印象を持ったかもしれない。
例えばシベリウスの合唱曲も、彼の器楽作品ほどの感銘は受けなかった。ごく自然に淡々と語られるように歌われ、歌詞が終わると、ふと途絶えるように終わる、そんな音楽の運びはとてもシベリウスらしいと思ったのだけれど。

さて、お目当ての湯浅譲二作品「芭蕉の句による<四季>」は、各季節を詠んだ4句をテキストとする4つの小品からなるが、日本語とその英訳の両方を用いている。湯浅が日本語をテクストとした合唱曲で探究していた言葉の処理、個々の言葉の母音や子音といった構成要素のもつ質感を、その表現内容と巧みに結び付けてゆく手法が、非常に自然に音楽として結実している。音楽的な(音響的な)素材としての言葉に対する深い考察は、この作品をこの日のプログラムの中で際立ったものにしていた。こうした言葉に対するアプローチは、ともすれば人工的なもののように思われてしまうかもしれないが、逆に歌詞は非常にくっきりと聞き取られ、また大人数の合唱ゆえ、声部を分割した時の濃淡が多様になる。ところどころでメリスマ的な音の動きが出てくるが、それが変に構えたようにならないのも良い(日本の伝統音楽を中途半端に知っていると妙に強調して歌ってしまうかもしれないが)。作曲者が練習に立ち会ったのはゲネプロだけだったそうで、そのため日本語の発音がややおかしなところがあったのが残念。

トルミスの「大波の魔術」では、口笛や指笛が効果音のように使われたが、その音色そのものは面白かった。特に口笛は集団で吹くと、一人で吹く時とずいぶん違った印象があるものだ。

さて、テキストの処理とはまた別の点で、この日印象的だったのは、シューベルトの「Ständchen」だった。ピアノとテノール独唱を伴うこの曲は、テノールと男声合唱がカノンのように呼び掛けあいつつ歌われる。テクスチャーそのものは決して厚くはなく、むしろ非常に軽いのだが、シューベルト独特の漂うような転調や和声進行と相俟って、浮遊するような音楽的持続が作り出される。和声の機能感が厳然として存在するが故に作り出されるこの感覚は、これ以前の時代でも、これ以降の時代にもなかなか実現しにくいものなのかもしれないと思った。





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