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読売日本交響楽団第428回定期演奏会(斉木由美Entomophonie III」を中心に)

読売日本交響楽団はここ数年毎年一回、委嘱新作の初演を含む定期演奏会(指揮はGerd Albrecht)を行っている。今まで毎回日程があわなくて行けなかったが、今年ようやく聴くことが出来た(2004年6月12日、サントリーホー ル)。
オーケストラの定期演奏会は定期会員で満席だったりするのだが、この日はプログラムのせいか結構当日券が出ていて(あまり良い席は残っていなかったが)、 舞台上手真横の席(LAゾーンと呼ばれる一画)をゲット。この席からだと、舞台が間近に見えて面白いのだけど、右から弦楽器、木管楽器、金管楽器、打楽器 と音源が完全に分離してしまって(おまけにハープやピアノは全く見えない)、うまく音が混ざって聴こえない。したがって、別の席から聴けば、ずいぶん違っ た印象を受けたかもしれない。

この日のプログラムは演奏順に、ベリオ晩年の「ノットゥルノ」、斉木由美の委嘱新作「Entomophonie III」、休憩後にデンマークの作曲家Ib Norholmの交響的幻想曲第2番「ガウディを聴いて」とGeorgy Kurtagの近作「...コンチェルタンテ...」の日本初演。ここではお目当てだった斉木の新作を中心に感想を書いておく。

斉木由美の新作「Entomophonie III」は、ここ数年書き続けられている連作の一 つ。斉木の作品を、僕はあまり多くは知らないが、以前エアチェックしていたオーケストラ曲「ことばの雫」を聴き返す機会があった。この作品と比べて、 「Entomophonie」のシリーズは虫の声のようないわば具体性の非常に強い素材がつかわれているが、音楽的な純度は遥かに高い、という印象があ る。一つには「ことばの雫」では非常に様々な音響素材が用いられて効果的に書かれて入るものの、それらの素材は現代音楽ではもうおなじみのものが多 く、結果として全体的な劇的持続だけが印象に残ってしまうためだと思う。「虫の声」の発見によって、使われる音響素材そのものの再吟味が行 われ、それによって音響体としての音楽の純度がかえって高められたのだろう。とはいえ、「ことばの雫」でも虫の声のような反復的な音型が登場する箇所もあ り、その意味では虫の声は全く新しい素材というわけではなく、斉木の好みの素材を徹底的に洗い出すためのフィルターの役割を果たしているのかもしれ ない。
芥川作曲賞の候補にもなった「Entomophonie I」でも、素材として虫の声が使われていたが、作品全体の持続としては「ことばの雫」と同様、明確なクライマックスを指向する構成を取られていた。一方 「II」以降では、そうした「古典的」な構成法を極力廃した「静的な時間」を指向している、という。昨年武生で初演された「II」は、(一度だけしか聴い ていないし、ずいぶん時間が経ってしまったのだが)様々な虫の声からとられた響きが淡々と連ねられ、そうやって作られた緊張感が曲の終わり近くに(解放さ れる、というよりも)転換する、という印象があった。その意味では、方向性はないけれども音楽の構成自体は非常に明確であるように感じた。今回初演された 「Entomophonie III」は「II」をベースにして作られている、とのことで、確かに多くの素材が共通していたが、「II」のような構成感はあまり明確ではない、と言う印 象をもった。これは演奏によるところも大きいのだろうが、構成自体も「II」とはまた違った形がとられているのかも知れない。
作品全体は、入念に選ばれた素材が弱音で非常にデリケートに配置されており、所々音量の高まる箇所があるが、決して粗くなることはない。こうしたデリケー トな響きの作り方が、なによりもこの作品の魅力だと思う。オーケストラの面白さは、広いステージの上に音源が散らばっているという点にあるといつも思う のだが、この作品の場合も、いわばステージが一つの草むらで、あちこちから虫の声が立ちのぼる、というふうに(やや描写的に)とらえることも出来るだろ う。ただ、そう考え ると、弦楽器の一パートがまとまって一つの虫の声を演奏すると、そこだけ妙に大きな虫がいるような感じがする。管楽器は一つの点として扱われうるのに、弦 楽器は一つの面としてしか扱われない、というオーケストラの本質的なアンバランスが現れているとも言える(勿論これは斉木の作品の本質とは関係ないのだ が)し、それはそれで面白い。
非常に丹念に選ばれた響き、全体として静的で曖昧な方向性、途切れるように終わってその先を想像させるようなエンディング等、山口恭子の「だるまさんがこ ろんだ」を連想した(勿論、響きや目指すところはずいぶん違うと思うが)。もっとも、こうした印象はこの日の演奏によるところも大きいだろう。あとで斉木 本人 からきいたところでは、この日の演奏はテンポがかなり早めだったようだ。確かに、この日の演奏では、ちょっとあっけなく終わってしまった感があったが、譜 面に指定されたテンポではかなり違った印象を与えることになるだろう。おそらくもっと密度の薄い響きになるだろうが、そうなると演奏家と聴き手にはかなり の緊張を強いることになると思われる。是非、違う指揮者での再演を聴いてみたい。
ところで、このコンサートのプログラムノート(インタビュー)では、斉木は素材を「構成する」ことに強いこだわりがあるようだ。これは「静的な持続」への 指向とはやや異質な感じもする。例えばフェルドマンやケージをはじめとするアメリカ実験音楽の流れの中にも、そうした静的な持続への指向性があるし、最近 の即興音楽のミュージシャンの中にも、静謐な表現を重んじる人たちが多い(と思う)が、これ らの作曲家(や音楽家たち)では音響それ自体に中心的な関心があり「構成する」ことは避けられている。フェルドマンの作品(特に演奏時間の長い作品)を聴 くとき、個々の響 きの中に入ってゆくような、そういう体験をするのだが、斉木の場合にはどうなのだろうか?虫の声は何らかの音響体験を与えるものというよ り、何らかの「持続」を構成するための部品(素材)に過ぎないのだろうか。ある意味、最近のシャリーノに近いところを目指しているのかもしれない。いずれ にせよ、斉木が今後どのような美学を作り出してゆくのか、興味深いところ だ。

この日演奏されたほかの作品についても、ちょっとだけ感想を書いておく。
最後に演奏されたクルタークの最新作「...コンチェルタンテ...」は、 ヴァイオリンとヴィオラの二重協奏曲。重い弱音器(クランクヴォルフ)を付けたソロから始まり、胴体の無いサイレント・ヴァイオリン(とヴィオラ)に持ち かえられて終わる。非常に微妙な音色に対するこだわりはクルタークらしい。丹念に一つ一つ選ばれた音が連なってゆく。楽器編成の中には、スティールドラム やアップライトピアノなど、やや特殊な楽器 も含まれていた(ただし、僕の席からは見えなかった)。ただ、全体的には案外「普通」の響きが多かったという印象もある。98年にダルムシュタットに行っ たとき、クルタークのオーケストラ曲を聴いたが、そのときの強烈な印象はなく、全体に淡く、どこか粗さがありながらも繊細な響きが印象に残った。
コンサートの一曲目に演奏されたベリオの「ノットゥルノ」は、同名の 弦楽四重奏曲の弦楽合奏版。基本的には原曲をそのまま弦楽オケに置き換えただけのようで、わざわざ編成を大きくした意味は感じられない。この日配布された 長木誠司によるプログラムノートには、ベリオは「音楽とコミュニケイションの問題に絶えず取り組んだ作曲家でもあった」と書かれている。晩年のベリオ作品 の多くと同様、言うことがないのに、それでも何か言わなければならない状況にいるような、とりとめのない音の流れが続いた。
休憩後、一曲目に演奏されたノアホルムの交響的幻想曲第2番「ガウディを聴いて」は、 この時代がかった題名の通り、ロマンティックな作品。多数の鍵盤打楽器が登場する箇所を除くと、ニールセンの作品、と言われればうっかりだまされてしまい そう。

(更新2004/7/7)


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