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「日本フィル・作曲家プロデュース・コンサート第3回《湯浅譲二の巻》」の感想

なんだかこのコーナーではやたらと湯浅譲二作品についてのメモを載せることが随分多いが、これは僕が熱心な湯浅ウォッチャーであるからと言うよりも、決し て数の多くない現代音楽のコンサートの中で、最近飛び抜けて湯浅の活動を回顧する催しが多いためだろう。

この日(2005年2月3日、サントリーホール・大ホール)はコンサートの冒頭に、湯浅が最も影響を受けたクラシックの作曲家の作品としてJ.S.バッハ (ストコフスキー編曲)の「パッサカリアとフーガ」、その後、1992年の「始源への眼差II」、休憩後、1980年の「Scenes from Basho」の久しぶり(?)の再演、2003年の「内触覚的宇宙V」、そして新作「始源への眼差III」、アンコールに湯浅の編曲によるJ.S.バッハ の「平均率クラヴィア曲集」より前奏曲変ロ短調、というプログラム。全体に、少し演奏の粗さが目立ったのが残念。

「始源への眼差II」の演奏は、もうすこし個々の音響イヴェントが整 理されれば良かったのに、と思った。特に冒頭では、明確で対比的な楽想が次々現れるが、それがみなバラバラと出てくる。オケも緊張しているのだろうか。
この曲は全体的なフォルムがなかなか複雑で、曲全体のドラマの運びをどう作るかは結構難しいのではないかと思う。ただ、セクションごとの内部のエネルギー の推移については、ある程度整理することは可能だろう。例えば、練習番号Hまでの最初のセクションでは、F近辺でフォルテのトゥッティが現れるが、ここが 一つの頂点となるような音楽の運びが望ましいのではないだろうか。
つづくHからのセクションは、一度全体のテクスチャーが薄くなるが、テンポはむしろpiù mossoで上昇する。ここでうまく進行感を保たないと、Iの直前でのトゥッティが唐突な感じがしてしまうし、Jからの反復的な楽想にうまくつながらない だろう。この曲は全体にフォルティッシモの部分が多く、また非常に鳴りやすいように楽器が組み合わせられているので、逆に普通のフォルテ、メゾフォルテや ピアノ以下の声部をうまく処理しないと、いつも咆哮しているような状態になってしまう難しさがあるように思う。なお、この日はオケの後列をきちんとひな壇 に乗せていたので、例えばコントラバスの特殊なボーイングによるノイズなどはとてもよく聴きとれて大満足(ちなみに僕の席は1階中央からやや下手側だっ た)。

休憩後一曲目の「Scenes from Basho」は、「始源へ の眼差II」とは対照的とも言える作品。簡素で、暖かみのあるオーケストレーション。この曲を聴くと、他の作品にはない音色の遠近感が非常に見事に作り出 されていることがわかる。くっきりした輪郭をもつ「よく鳴る」オーケストレーションとは別の、柔らかみ、くすみや曖昧さのある音色。やはり湯浅はオーケス トレーションの達人なのだと実感。それは単に鳴らすのがうまい、というのではない。楽器の音を明晰に響かせるだけではなく、微妙な濃淡も巧みにつくりだし てゆく。
この曲のもう一つの魅力は、シンプルさ故に際だつ音楽的な呼吸感だろう。明確な特徴を持つセクションが併置されるように作られるが、それぞれのセクション 内部の穏やかな響きの移り変わり、セクションとセクションの移り変わる箇所での深い呼吸など、他の湯浅作品には余り見かけない味わいがある。音響的なダイ ナミズムを追求するタイプの音楽ではないので、それを一種の「後退」と位置づける人もいるだろうが、そう単純に割り切ってしまうわけにもいくまい。湯浅の オーケストラ曲を聴くと、必ずと言っていいほど、それ以前の作品では用いられなかった特殊な音響素材がさりげなく使われていて、それはこの曲でいえば2曲 目のウォーターゴングにあたるだろう。
この曲は、他の湯浅のオケ曲と較べると、非常にシンプルであるが故に、ちょっとした演奏のズレが命取りになってしまう難しさがある。特にこの作品では、多 くの音にヴィブラフォンやハープ、ピアノと言ったはっきりしたアタックの楽器が重ねられて、大気のようなくすんだ響きの中に明確な線を浮かび上がらせるよ うな処理がなされているが、きちんと縦を合わせないと、その効果は損なわれてしまう。一見譜面がシンプルなだけに、うっかり気を抜いてしまうと簡単に崩壊 してしまうのが、演奏する側から見たこの曲の怖いところだろう。

いま改めて湯浅の90年代以降のオーケストラ曲の多くを「Scenes from Basho」と比較してみると、ダイナミックにオケを鳴らすことが主眼になっているような印象があって、「Basho」にあったような遠近感は後退してい るようにも感じた。もちろん湯浅の好みが変化していっていることもあるのだろう。もう一つは、演奏や解釈の問題があるのかもしれない。湯浅のオーケスト レーションは、(特に「オーケストラの時の時」以降)基本的には楽器を様々に組み合わせることで声部に色づけをする、という方法が取られているので、うま くバランスを取らないと、全体が厚ぼったくなってしまう危険があるように思う(これは特に後期ロマン派以降の管弦楽曲などとも共通する演奏の難しさだろ う)。また、湯浅のオーケストラ曲のスコアを見ると、一見何気ない持続音に見えて、実は楽器間でダイナミックスのタイミングが微妙にずらして書かれていた りして(例えば「啓かれた時」にはこうした箇所が顕著である)、非常に手の込んだ音色づくりがなされていることがある。そうした微妙な音色の変化は、単に 勢いに任せて演奏するのではなく、かなり緻密にコントロールしなければ実現できないものだ。

などと書いていると、「オレに監督をさせろ」とくだを巻いている野球ファンのように思えてきた。マズいな、このあたりで止めておこう。

「内触覚的宇宙V」は、盆踊りの旋律やリズムがダイレクトに用いられ たことで話題をよんだ(?)作品。ただし、この日の演奏では楽器のバランスの取り方にもよるのか、あるいは生演奏ではこういうバランスなのか(いままでは ラジオでしか聴いたことがなかったから)、それほど露骨に盆踊りの旋律はきこえなかった。
ところで、パルスが一貫して流れているのは、湯浅の中では非常に例外的である(と本人も語っていたのを聴いたことがあるような気がする)。若い世代の作曲 家の間で、パルスや周期的な構造は一つのスタイルとなりつつある(顕著な例は最近の、というか2,3年前の望月京など)が、それを意識しているのだろう か。パルスや反復を意識的に使う作曲家の念頭にあるのはテクノやロックなどだろうが、それらを安易にまねるのではなく、ひねりを加えて、自分の美学的背景 に基づいて民俗的な素材(盆踊り)をとってくるあたりが湯浅らしい。

新作、「始源への眼差III」は、IIと同様、弦楽器の高音のロング トーンに、打楽器が鋭く切り込んでゆく冒頭。ただし、その後の展開はさらにダイナミック。ブロックはより短く、それらが複合的に構成されている。中橋愛生 氏がblogで「オーケストラの時の時」に近いと表しているが、ある面ではそう言えなくもないかもしれない。ここしばらくの彼の作品に顕著だった旋律が明 確には現れず、マッシブな和音や弦楽器群のグリッサンドによる音響体が、この曲を構成する主体となる。冒頭と同様の弦楽器の高音群のグリッサンドが、徐々 にロングトーンの和音ににじんでゆくようなエンディングはとりわけ美しい。個人的には最近の湯浅のオーケストラ曲の中では一番感銘を受けた。

アンコールに演奏された「平均率」の編曲は、簡潔でしかし効果的なオーケストレーション。旋律線が頻繁に音色を変えてゆくところは、どこかウェーベルン編 曲の「6声のリチェルカーレ」を思い出すが、ウェーベルンのように個々の楽器をバラバラに扱うのではなく巧みに楽器を重ねて色づけられ、なおかつ透明感を 失わない。演奏は随分ドラマティックだったが、もっと抑えた演奏もありうるのではないかと思った。
これに較べると、コンサート冒頭に演奏されたストコフスキー編曲のバッハは、何というか、ゴテゴテした感じ。やたらと厚塗りで雄弁に鳴り響くが、音も随分 濁っている(もっとも、これはハ短調という調性のせいかもしれないが)。演奏は、この編曲のもつ濃厚なロマンティシズムを充分に発揮した充実したものだっ たが、それ故にこの編曲の時代性(というか古くささというか)も感じた。いっそこれも湯浅のオーケストレーションできいてみたいところだ。



(更新2005/7/17)


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