田中吉史のページ/様々なメモ


「湯浅譲二作品連続演奏会第1回 -ピアノ曲-」の感想

今や半世紀を超える湯浅譲二の活動を回顧する催しに参加する機会が、最近多い。この8月「秋吉台の夏」セミナーに参加したが、そこでも湯浅のエレクトロア コースティク作品を回顧する連続講演が行われた(この講演の感想等はまた別の機会に書きたい)。今回は湯浅がデビュー以来書いてきたピアノ曲のほとんどを 集めた演奏会(2004年10月29日、東京文化会館小ホール)。「第1回」とあるから、これからもこうした回顧的なコンサートが継続して企画されるのだ ろう。

この日演奏されたのは図形楽譜による「プロジェクション・エセムプラスティク」(1961)以外の9曲に新作「二台ピアノのためのプロジェクション」を加 えたプログラムで、演奏は木村かをりと野平一郎という二人の名手。プログラムは順に「二 つのパストラール」(1952)「スリー・スコア・セット」(1953) (以上、野平)「内触覚的宇宙I」(1957)(木村)「プロジェクション・トポロジク」(1959)「オン・ザ・キーボード」(1972)(以上、野平)、休憩を挟んで「セレナード-「ド」のためのうた」(1954)「内触覚的宇宙II-トランスフィギュレーション-」(1986)「サブリミナル・ヘイ・J」(1990)(以上、木村)「メロディーズ」(1997)(野平)、締めくくりに新曲「二台のピアノのためのプロジェクション」(2004)(木村・野平)。長丁場 で疲れるかな、と思いきや、長い作曲歴のなかで見られる作風の変化、二人のピアニストによる湯浅解釈の違いなど、全く飽きることなく聴くことが出来た。一 曲一曲がそれほど長くないので、コンサート自体もそんなに長いものではなかったし、殆ど転換が無いので音楽に対する集中も途絶えることなく聴けたのもよ かった。

湯浅のピアノ曲は、1950年代に集中的に書かれ、その後、70年代の初頭に一曲(オン・ザ・キーボード)、80年代後半からは散発的に委嘱にあわせて書 かれている。その意味で、例えば松平頼暁のようにピアノ曲をコンスタントに書いてきたわけではないが、湯浅の作風の変化を見渡すことができる。
1950年代は特に湯浅の美意識や技法が徐々に確立されてゆく過程が見えて興味深い。ほぼ作品ごとにスタイルが変化してゆき、1957年の「内触覚的宇宙 I」で湯浅の美意識(響きに対する好みも含めて)がある程度確立される。また、拍を様々な連符に分割し、そこに音をはめてゆくという、「プロジェクショ ン・トポロジク」で開発された手法は、その後も多くの作品で援用されている。テープ音楽など新たなメディアの開拓に取り組んでいた1960年代には伝統的 な意味でのピアノ曲は書かれていない(今回演奏されなかったプロジェクション・エセムプラスティクは不確定性の強い図形楽譜による作品なので、伝統的なピ アノ曲とはちょっと呼びにくい)が、1972年の「オン・ザ・キーボード」には、同時期に書かれていたオーケストラのための「クロノプラスティック第1 番」と共通するダイナミックな造形が感じられる。1980年代に入る頃から、全体として湯浅の作風は徐々に簡潔なものに変化してゆくが(例えば管弦楽曲で いえば「オーケストラの時の時」と「Scenes from Basho(1980)」を比較すると、その変化がよくわかると思う)、ちょうどそれに対応するように、「内触覚的宇宙II」以降の作品は、よりシンプル で簡潔な表現がとられるようになってゆく。多量の音響を投入し、それらを駆使して一つの頂点を目指すような構築性は徐々に薄くなり、かわってより簡潔な表 現が前面に出てくる。このころのピアノ曲では、一つの音型を反復しながら上下に移動するパッセージがよく見られるが、例えば「クロノプラスティック第1 番」や「オーケストラの時の時」で見られた弦楽器群の大規模なグリッサンドの持つダイナミックさよりは、むしろ響きと運動の簡潔さを感じさせる。

新作「2台のピアノのためのプロジェクション」では、二台のピアノがステージ左右に離して配置される。冒頭、通常の奏法で打たれたピッチを、もう一台のピ アノがミュートした同じピッチで追いかけることで、一種のエコーが作り出される(類似した表現はチェロとピアノのための「内触覚的宇宙IV」でも見られ る)。途中、二台のピアノが似通った音型を少しずつずらしながら重なる箇所では、空間的な広がりが作り出され、非常に印象的。2台のピアノによるオーケス トレーションの可能性、とでも言えるだろうか。この作品も、全体の持続は最近の作品と同様、明確な方向性を示すというよりは性格的なブロックをより自在に 構成しているという印象だが、響きはさすがにソロ曲よりは分厚いし、音楽ものびのびしている。これを聴きながら、響きの厚さという点でどうしても限界のあ るソロピアノは(もちろんそこでも独自の世界を展開してることは確かなのだが)、もしかして湯浅にとってはちょっと不自由な楽器なのかも、とふと思った。

二人のピアニストによる湯浅のピアノ作品に対するアプローチの違いも非常に興味深いものだった。野平は、硬質なタッチを主に用いつつ、湯浅作品の造形性を 浮き立たせた演奏。一方、木村は柔らかめのタッチで、湯浅作品の残響の美しさを前面に出す、どちらかというと耽美的な解釈を見せた。楽譜に書かれた音楽の メリットは(もちろん楽譜に書くこと自体の限界は多くあるのだが)、こうしていろいろな演奏家の手で様々な可能性が引き出されてくるところにある、という ことを痛感した演奏会だった。


(更新2004/11/24)


様々なメモ/indexへ戻る

Homeへ戻る