田中吉史のページ/様々なメモ


第14回芥川作曲賞選考演奏会

以前どこかで、直木賞と芥川賞は菊池寛が文学のプロモーションのために考えついた興行であった、というような話を聞いたことがあった。確かに、芥川賞が発 表されるとその受賞作がベストセラーになったりすることがあるから、新人作家としての評価を与える機会という以上に、興行として非常に重要なイベントでも あるといえる。
同じことは、この芥川作曲賞についても言える。芥川作曲賞を受賞した作曲家や最終選考に残った作曲家の多くが、その後華々しい活動を行っていることを考え れば、この賞が新進作曲家が一躍中堅へと躍り出る格好のチャンスとなっていることは疑いないし、この選考演奏会では、他の地味な作曲家の演奏会などではま ず見かけることの無い批評家諸氏や大物作曲家の姿を多数見ることができること、また選考結果が非常に速やかに一般紙の記事になることからも、現代音楽をプ ロモートするための興行として大きな役割を果たしていることがわかる(もっとも、一般の音楽ファンがどのくらい足を運んでいるか不確かな点は残念だが)。

さて、今回の芥川作曲賞選考演奏会(2004年8月29日、サントリーホール大ホール)では、一昨年の受賞者、夏田昌和の委嘱作「重力波」がまず披露さ れ、続いて今年のノミネート作品、渡辺俊哉 「Polytexture」、三輪眞弘「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」、壺井一歩「星投げびと」の三作品が演奏された。バラエティに富んだ選曲は、そ ういうことも考えて選曲しているのかと思うくらい、コンサートとしても非常に楽しめるものだった。

夏田「重力波」は、ステージのオケ本体の他、二階席に2人の打楽器が配される。冒 頭、オケとバンダによる大太鼓のPPPのロールから作品が開始される。こうした低音域の音は音源を明確に把握することができないので、遠くからの(音源の 定かでない)地鳴りのように聴こえ、その後大太鼓の皮をこするノイズが聴こえて初めてバンダがどこにあるかわかる、というちょっと不思議な体験をする。僕 は夏田の作品を網羅的に聴いているわけではないが、以前の彼のオーケストラ曲では、作品全体が一つの明確で単純なプロセスからなるような構成を取るものが 多かったように思う(例えば「ソリトン」「メガリシック・ウェーヴ」)が、最近の作品では複数のセクションの並置によって構成される傾向があり、前作「ア ストレーション」では3つの、「重力波」ではプログラムノートによれば5つのセクションからなる。ただ、「アストレーション」では各セクション内の変化の 方向性が比較的明確だったが、「重力波」ではセクション内の推移の方向性はそれほど際立たず、むしろ一つのセクション内はスタティックな印象があった(セ クションが多いのであまり方向性がはっきり聴き取れなかったということかもしれないが)。「重力波」と「アストレーション」との顕著な違いのもう一つは、 オーケストラの全体的な処理の仕方にあるように思う。「アストレーション」は、オケ全体やオケを大まかに分割した群による非常にマッシブな響きが大きな特 徴だったが、「重力波」ではそうしたトゥッティによる重量感より、より緻密に分割された楽器群の響きが印象的である。一般に、オーケストラを充分に鳴らす ように音を重ねると、概してクラシック音楽やあるいは映画音楽のような響きに陥ってしまいがち(この5月にあった「武満徹作曲賞」の本選演奏会はまさにそ ういう作品が多かった)だが、夏田はオーケストラを豊かに鳴らしつつ個性的な響きを作ることのできる希有な作曲家だと思う。この日の演奏では、セク ションごとに音楽の流れが断ち切られてその都度テンションが持続できなかったように感じた。いずれまた再演を聴く機会を待ちたい。

芥川作曲賞選考演奏会は、一度演奏された作品の再演の機会としても非常に貴重である。多くの現代のオーケストラ作品は再演されることが無く、初演の際の演 奏の問題がそのまま作品の問題であるかのように思われて終わってしまうことが多い。また、再演されることでその作品の別の魅力が引き出されることもある。 この日の渡辺「Polytexture」の再演を聴いて、このことを今更ながら強く感じた。 この日の演奏では初演の時には全く気付かなかった様々な響きを聴き取ることができた。特に、曲の後半で多く現れてくる、作品の殆どの部分を覆っている漂う ような響きとは対照的な、フォルテの鋭い響きは、この作品の印象を初演とは全く違うものにしていたと思う。これは指揮者の小松一彦の造形的な解釈によると ころも大きいだろう。こうしてあらためて聴いてみると、渡辺の作風の大きな特徴は、響きの耽美性(ある種のデカダンス、というか)にあることがよく わかる。聴きながら、Adriano Guarnieriのオケ曲を思い出したが、強いて分類すれば、渡辺の音楽はシャリーノ以降見られるようになった繊細な音響を主体とするスタイルの 一つの典型例とも言えるかもしれない。

さて、これらの二作品では楽器群の空間配置が行われているので、多分1階の方が望ましいだろうと思い、客席1階で聴いた。ただ、サントリーホールは、1階 席で聴くとどうもステージの音がぐちゃっと混ざりあってしまって、細部がクリアに聴こえないように思う。特に夏田作品ではそのように感じた。これは作品の せいというよりもホールの特性によるものだろう。また、現代音楽のオケのコンサートでは、転換に手間がかかるためにひな壇を使わず、全演奏家をすべて同じ 高さの平面において演奏することが多い。この日の演奏会でもこのようにして行われたが、これはとても残念なことだと思う。後ろの方の演奏家をひな壇に載せ るだ けで、音の分離はかなり良くなる筈で、多少転換に時間がかかっても、是非そうして欲しいと切に願う。

1階席の音に不満をおぼえだしたところで、三輪眞弘親衛隊のTさんが、2階席の招待券の余りをくれたので、休憩時間にそちらに移動。順番は逆になるが、 最後に演奏された壺井一歩「星投げびと」について書いておく。この作品も初演を聴いていたが、再演では以 前気がつかなかった様々な細部 を聴くことができた。2階から見ているとヴィオラが省かれ、チェロが一人だけ踏ん張っている、という構図もよく見えて面白い。ヴァイオリン群を一つの大き な楽器と見なす、というアイディアは、そこだけ広い面積から一斉に音が立上がってくる様子がよく見える2階ではなおさら面白く感じられる。ヴァイオリン群 が実は結構細かな動きをしている箇所が多い、ということもよくわかった。作品全体は、様々な楽想が取り留めなく接続されてゆく、という風情で、そういう気 ままさがこの音楽の面白いところだし、個人的にはとても親近感を覚える(楽想の配置が時間的にシンメトリックになっているような感じがしたのは気のせ い?)。部 分的に見ると、非常に新鮮な響きもある(特にコントラバス群のフラジオレットがうねうねと出てくるセクションなど)が、オーケストレーションの面でもピッ チの選び方の面でも、非常にクラシカルな響きの部分の方が多い。個人的にはそこに不満を感じた。部分と部分のつなぎ方が面白い分、響きの古くささが際立っ てし まう。ヴィオラを省き、チェロを一人にし、などのなかなか大胆な選択をしたにもかかわらず、音響そのものの作り方はむしろオーソドックスで、意地悪な言い 方をすると、オーケストレーションの古くささを特殊編成にすることでカバーしようとしてそうしきれなかった、というような印象もある。勿論、クラシカルな オーケストレーションがすべて悪いというわけではないし、オーケストレーションについてよく研究している点は敬意を表するけれど、この曲ではそれが魅力を 殺いでいるように感じた。

2階席に移動したのは、三輪「村 松ギヤ・エンジンによるボレロ」を聴くためにも適切な判断だった。カスタネットとタンバリンが淡々とビートを刻む中、弦楽器群が延々と蛇 行するグリッサンドを演奏し続けるこの作品は、2階席の方が各パートがより明確に分離して聴こえ、様々なグリッサンドの濃淡を楽しむことができた。タムタ ムが周期的にならされ、時折小太鼓によるマーチのようなリズムや、ホルンやトランペットの朗々とした旋律がよぎってゆく。この音楽がどのようにして終結す るのか、なぜかハラハラしながら聴いたが、曲の終わり近くになって、全弦楽器のグリッサンドの方向が上行型になり、最後はタムタムの一撃で終わった。近年 「方法主義」を標榜するよう になる以前から、三輪の音楽は音を生成するためのルールやシステムに徹底的にこだわっていた。以前、三輪の著書「コンピュータ・エイジの音楽理論」 (1995年、ジャストシステム刊)を読んだ時、痛切に感じたことだが、ある意味で、三輪はベニテス(「現代音楽を語るーエクリチュールをこえて」 1981年、朝日出版社)の言う意味でのヨーロッパ前衛主義の正統な末裔とも言 えるかもしれない。「ボレロ」を含む最近の三輪の一連のプロジェクトでは、以 前よりもかなりシンプルなルールが用いられている(のだと思う)ので、あまり込み入った構造を作ることができない。こういう場合、そのルールにどのよ うな素材に適用するのか、が作品の成否のカギを握ることになる。あるいは逆に素材に適したルールの選択が重要だとも言える。弦楽器のグリッサンドも、打楽 器のビートも、素材としては決して新奇なものではないが、あえてそれに徹したこと(あるいはそれに徹せざるを得ないルールを用いたこと)によって、非常に 強烈な音響を生み出していたし、また、一見単調だが非常に豊かな細部を実現していたのは、ルールとその振る舞いを充分吟味した結果だろう。僕は「方法主 義」の良き理解者ではないだろうし、最近の三輪の作品を十分理解している自信は全くないので、以上はあくまでも個人的な解釈の範囲を出ないのだが(まあ、 そもそもこのコーナーの文章はすべてそうだが)。

小松一彦指揮新日本フィルの演奏も、単にコンクールの演奏という以上に、音楽として充分「聴かせる」ものだった。特に小松の造形的な感覚(昨年の山本裕之 「カンティクム・トレムルム II」の演奏でもそれを強く感じた)は、一つ一つの作品を非常に引き締まったものにしており、それぞれの作品の他の演奏ではあまり明確にならない側面を浮 き彫りにして いたと思う。

さて、作品の演奏自体のみならず演奏終了後の選考会もこの選考演奏会の見ものである。今年の選考会はなんだかずいぶんスムーズにコトが進んであっけない 感じがした。毎年この選考演奏会に来ているわけではないが、以前みたときには、3人の選考委員がなかなか本音を言わずに探りあっていたり、あるいは明確に 意見が対立し てやりあったりすることもあった。しかし、この日は3人の選考委員(湯浅譲二、野平一郎、猿谷敏郎)のうち最初に誰かが発言すると、残りの二人もその発言 に同意し補足する、というような具合に、ごくごく平和的かつ効率的に審査が進んだ。個人的には、初めて公開審査の場に登場する猿谷がどのような審美眼の持 ち主で、どのような発言をするのか興味があったが、今回は特に猿谷の発言が目立つということはなかった。
結果としては、選考委員全員が一致して三輪眞弘を推し、彼が今年の芥川作曲賞の受賞者となった。これはある意味画期的である。三輪の作品は10年前 であれば本選にすら選ばれなかっただろう。伝統的なオーケストラ曲の書式からは全く切り離されたアイディアに基づくこの作品は、従来のオーケストラ曲の審 査基準では全く扱い得ない。審査の過程で、オーケストレーションや構成などのテクニックの問題(勿論何らかの言及はあったにせよ)殆ど議論されなかった のも非常に印象的だった。以前であれば、似たような傾向の作品だけが選ばれていただろうし、その中での技術的優劣が決め手になっていただろう(少なくとも そう思えるときがあったし、今でもいくつかのコンクールはまさにそういう状態である)。今回選ば れた3作品はどれも全く異なったスタイルとアイディアを持った作品だったが、これは最近の日本のオーケストラ曲のスタイルが非常に多様になりつつあること と、そうした多様性を充分に受け入れる(評価側の)姿勢が出来上がってきたことによるのだろう。単一的な評価基準が失われてきた、ということでもあるだろ うし、テクニックだけでなく(考えてみれば、テクニックというもの自体、何らかの美学的な前提があって初めて議論できるものなのだが)、コンセプトが非常 に重視されるようになってきた、ということでもあるだろう。

ところで、選考会で司会の沼野雄司が、三輪作品のプログラムノートの特異さについて選考委員に意見を求めたのに、誰もそれに答えないという場面があった た。いわゆる現代音楽のプログラムノートというのは、作曲家がたとえ力を入れて書いていても、作品を鑑賞する上ではあくまで参考程度のものと見なされるこ とが多い。選考委員がプログラムノートにコメントを求められても興味を示さなかったのはそのためだろう。それはそれで選考委員の立場を示したわけで、それ 自体を問題視する必要はないと思う。しかし、三輪自身も発行人の一人である機関誌「方 法」第38号の鼎談から察するに、三輪の作品プログラムノートはむしろ「作品の一部」であり、その意味では音響的な結果だけを云々することは片手 落ちである、というのが、おそらく三輪自身(や方法主義者たち)の立場なのだろう。もしそうだとすると、選考委員が何度も言及し高く評価していた三輪作品 の「コンセプト」と、三輪のプログラムノートに込められた「管弦楽曲を書くということ自体がはらむ植民地主義等、種々の政治性」(=「方法」第38号での 松井茂の発言)への問題意識をも含む作品の「コンセプト」とは、実はずれているのかもしれない。振り返ってみれば、先ほど僕が書いた三輪作品の感想 も、た とえば僕がモートン・フェルドマンの「Coptic Light」を聴くときとあまり変わらない態度で聴いていたために出てきたものなのだろうし、こういう鑑賞の仕方自体、彼らにしてみれば批判のターゲット なのかもしれない。もちろん、作曲者の意図と聞き手の解釈した意図がずれていても全然構わない、という意見もあるだろうけれど(僕はどっちかというとそう いう立場に近い)、「方法主義」のラディカルさを見て想像するに、彼らはそういう生半可な態度を許さないのではないかと思うのだが、考えすぎ?

選考会での議論(というほどやり合ってはいなかったが)を聞いていて思ってもう一点思ったのは、講評で指摘された各作品の長所や欠点は、文脈によっては全 く逆の評価を受けることもあり得るだろうということだった。例えば、渡辺作品の方向性の曖昧さは、逆にいえば露骨な方向性を巧みにぼかす洗練されたやり方 と 解釈することもできるだろうし、繊細な響きに対抗するようにおかれたフォルテの音響の生々しさは、茫洋とした響きを引き締める効果を持っていたと言うこと もできよう。壺 井作品におけるクラシカルな響きは、僕には魅力を殺いでいるように感じたが、今回の選考委員からはむしろ新鮮な態度として積極的に評価されていた。また、 それぞ れの作品の特徴をポジティヴに捉えるか、ネガティヴに評価するかは、評価を下す選考委員ですらコントロールできない要因(本選に残った作品の組み合わせ、 他の選考委員、発言の順序、などなど)によっても左右されているのかもしれない(心理学実験なら絶対にそういう要因を統制するはずだけど、この場合は不可 能である)。今回は三輪作品が(作品の性格上)際だっていたので、そういう細かな要因の影響は受けにくいだろうと思うが、あらためて作品を「評価する」こ との難 しさを痛感したのだった。

付記 
ここで書くべきことではないかもしれないけれど、どうしても気になるので、一言。この芥川作曲賞選考演奏会を含むサントリー音楽財団主催サマーフェスティ バル2004で配布されたプログラム冊子に、誤りが多いのがとても気になった。関連雑誌のほとんどが廃刊され、今や現代音楽に関する印刷された資料が非常 に限られたものになってしまったが、こうした状況の中、こうした冊子は資料的にも貴重なものだ。また、入場者全員に(すべてのコンサートで繰り返し)無料 で配布するという主催者の太っ腹さには本当に頭が下がる。しかしそれだけに、誤った情報が流布されてしまう問題は非常に大きい。明らかに誤植と思われる箇 所や「てにをは」レベルの誤りはおいておくとしても、たとえば、8月25日「海外の潮流」の室内楽コンサートで演奏されたハヤ・チェルノヴィンの経歴 (p.29)について、冊子では「カリフォルニア大学ロサンゼルス校で」学んだと書かれているが、これは「サンディエゴ校」の誤りである。また、 「1993年から奨学金を受けて1年間日本に滞在」とあるが、2年くらい滞在していた(確かに奨学金が出ていたのは1年だけだと思うが)。その他、たとえ ば8月26日の国際委嘱シリーズで取り上げられたラリッサ・ヴルハンクの「ホログラム」は「大編成のオーケストラ」とあるが(p.13)、ステージを見る 限り、決して大編成とは言えない程度の人数の演奏家しかいなかった(どのサイズからが大編成なのかは微妙な問題だが)。こうした原稿を書く際にはどうして も限られた資料しかない場合もあるのだろうとは思うが(とはいえ、例えば、前述のチェルノヴィンの経歴については、インターネットで検索すればすぐに正し いかどうかチェックできる)、結果的に誤情報を残すことになってしまう危険について、もう少し配慮してもらいたいと思う。

(更新2004/9/23)


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