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第3回武生国際作曲ワークショップ

武生国際音楽祭の枠内で行なわれている武生国際作曲ワークショップ(2003年6月8〜15日)の最後の2日間だけ参加した。ワークショップ自体は平日を含めてまるまる一週間続くので、他に生業がある身としてはとても全日参加はできないが、参加する若手作曲家の新作を含むコンサートが最後の土日にまとめられているので、週末にこのワークショップのエッセンスだけを体験しに行くというズルイ手もなくはないのだ(^^;)。

今思うと、1990年代に秋吉台のセミナーに参加していたころ、若い作曲家の新作は○○風、と言う形でカテゴライズしやすいものが多かったという印象がある。曰く、ラッヘンマン風、シャリーノ風、ファニホウ風、ドナトーニ風、スペクトル風、表現主義風、などなど。しかし、今回、武生のワークショップで演奏された作品群には、そうした既存のスタイルからの流れといったものはあまり明らかでなく、安易なカテゴライズのできないものが多かった(強いて言えば、音色の選び方や持続の作り方に、シャリーノを連想させるものが多かったが)。むしろ聴き手には個々の作品を丹念に聴いてゆくことが求められる、という状況になりつつあるのだろう。これはこれで非常に望ましいことではある。つまり作曲家の興味が、既存の大家のようなモデルに一歩でも近づくための修行ではなく、個々人の独自性の探求へと移ってきたと見ることができるからである(そうした強力なモデルがいよいよ消えつつある、ということかもしれない)。その反面、どのカテゴリーにも属さないかわりに、自分自身の新たなカテゴリーを開拓したと言えそうな強烈なものは、残念ながら見られなかった。(勿論、それはとても難しいことだし、自分自身にも跳ね返ってくるものだ。それに、真に新しいものは、最初はそうだと気がつかれないことが多いようにも思う。だからこう書くのは自分自身への自戒の意味合いもある。)

そうしたなかで、印象に残ったいくつかの作品について感想を書き留めておきたい。これらの作品が印象深かったのは、私の最近の関心とどこかで共鳴する部分が会ったからだろうと思う。ここではやや批判的なことも書いているが、これらはあくまで私の現時点での「感想」に過ぎないことをお断りしておく。

ドイツの若手Martin Schüttler(1971-)の「xerox studies b("fly right")」(sax, pf, perc)は、各演奏家が各自の楽器の他、ポータブルのカセットレコーダーを二つずつ持ち、操作する。二つのレコーダーのうち一つは、リズムボックス風のパルスが(3人で異なったスピード)録音されており、演奏中、所々でそれを再生する。もう一台は、演奏しながらそれを断片的に再生し、生演奏に重ねて行く。大袈裟なハイテクによる「サンプリング」ではなく、ローファイな「コピー」を用いる、という興味深いアイディア。楽器パートも、どこか調性感のある断片が多く使われており、いわゆる「ヨーロッパ的前衛主義」からは距離をとる作曲家であることがわかる。ただ、レコーダーによるリアルタイムの録音がうまくいっていたのかどうか、再生された音からはよくわからなかった。「コピー」を重ねて行く、というアイディアならば、録音されるべき素材はもっと明確なものである必要があるのではないだろうか?例えばAndreas Dohmenも同じように小型のレコーダーを用いた作品を書いているが、Dohmenの場合、反復が多用されるため、ローファイな録音がもつ音色が際だって聞き取られることになる(Schüttlerに直接質問したところ、Dohmen的な反復は好きではないそうだ)。アイディアのおもしろさが、うまくリアリゼーションされていたのか(演奏のレベルでも、作曲のレベルでも)、どこか食い足りなさが残った。

斉木由美の「Entomophonie II」(fl, cl, vln, vlc, pf)は、同シリーズのI(オーケストラ作品)と同様、虫の声を模倣した素材が用いられている。これらの二曲は題名だけでなく素材も共通しているが、根本的に全く異なる作品といってよい。Iでは虫の声はあくまでも特徴的な「素材」であり、音楽全体の展開はグリゼーのいくつかの作品を連想させるような、劇的なものを感じさせるものだった。IIではそれとうって変わって、虫の声を模倣した様々な断片が重なり合い、淡々と時間が過ぎてゆく。その時間的推移にはどこか最近のシャリーノの作品を連想させるものがあった。演奏前のインタビューで細川俊夫が斉木に「メシアンによる鳥の声の使用とどこが同じで、どこが違うのか」と興味深い質問をしていた。斉木の答えは、メシアンほどの高みに達していないのが相違点であり、キリスト教の信仰が共通点であるといった内容だったと思うが、もっと音楽的な側面で、根本的な違いがあるのではないだろうか。メシアンの鳥はあくまで作品を構成する(あるいは時間を構成する)ための「部分」にすぎないが、斉木の場合(特に今回の作品の場合)、個々の虫はすでに完結した一つの「響き」である。いずれにせよ、斉木が今後どのような方向に進んでゆくのか、興味をもって聴いてゆきたい。

小林明美の「六重奏曲」はAlter Ego(fl, cl, vln, vlc, pf)にTeodoro Anzettottiのアコーディオンが加わった編成。分厚く荒々しい響きが連なってゆく。ビート間のあるクラスターの連続など、素材をむき出しにした、ある種のプリミティヴさが強い印象を与える。昨年Klangspurenで聞いたリコーダーとテープの作品にも共通するプリミティヴさである。装飾を廃した(しかしペルト的な、あるいはミニマリスト的な単純さではなく)ごつごつした響きによって作り出される骨太な持続が(ただし演奏時間そのものは長くない)この作曲家の個性である。

招待作曲家ではなかったが、杉山洋一の新作、ヴァイオリン・ソロのための「アリア」が披露された。この作品もスコアを見る機会を逸してしまったが、作曲者によれば、他の幾つかの弦楽器のための作品と同様、出されるべき音ではなく、どの弦をどのポジションで弾くか、といった演奏の仕方を直接記したものだそうだ。演奏前のインタビューやプログラムノートで、杉山はこの作品がいかに古典的な「歌」であるかを強調している。杉山によれば、イザイのようなものなのだそうで、たしかにそう言われればイザイのように聴こえなくもないが、しかし、そうした「古典的」という言い方からは想像できないほどギシギシとしたどこかぎこちない響きが連なってゆく。それ故逆に、古典的であることとは何か、歌であることとは何か、音楽的とは何なのか、といった問いが明らかになる。とはいえ、決して観念的な作品なのではなく、このギシギシした響きの背後から、杉山らしいユーモアと叙情性がにじみ出てくる。

今回は新たに創設された「武生作曲賞」への応募作品の中から、3作品が選ばれて演奏された。
渡辺俊哉の「アラベスク」はピアノ独奏曲。近年の渡辺の非常に微妙な音色の使い方からはなかなかピアノ曲が想像できなかったので、非常に期待を持って聴いた。特殊奏法を使わず鍵盤と通常のペダリングだけで書くのは、実は結構度胸がいると思う。他の渡辺作品と同様、きわめて洗練された音の選び。なかなかおいそれとまねることができないセンスの良さは彼の持ち味である。ふわふわと漂うような、しかしきめ細かな音がたくさん連なってゆく。ただ、今回の場合、そうした響きの連続がやや平板に聞こえた。演奏(山本純子)は非常に好感の持てるものだったが、別の演奏家ではまた違った結果になるのかもしれない。渡辺の前作"Still"では、つかみ所のないふわふわした響きの連なりが、唐突に明確な旋律で遮られる、といった瞬間があった。「アラベスク」でもそうした瞬間が意図された部分が、もしかしたらあったのかもしれないが、よく聞き取れなかった。

江原修の「Emanation」はフルートとピアノのための作品。ピアニストは仏具の小さな鐘をピアノの内部に置いたり、転がしたりしながら様々な響きを作り出してゆく。ピアノの弦の上で鐘がごろんごろんと揺れながら作り出す響きは非常に興味深い。音響の発見という点では、今回ワークショップで演奏された作品のなかで最も注目される作品だったと思う。しかし、そうした興味深い響きが多い反面、常套的な部分も多く、響きの魅力を相殺してしまったという印象が残った。

今堀拓也はアンサンブルの方法に関心があるようだ。以前譜面を見せてもらった室内オケ作品「時の環」では、拍子や小節線が廃止され、演奏家の入りのタイミングが、個々のパートのパッセージに付された矢印によって示される。おそらくどの演奏家もスコアを見ながらでないと演奏できないだろうし、その結果テンションの高い演奏が生み出される(「時の環」のドナウエッシンゲンでの演奏が以前NHKでも放送されていた)。こうした記譜法はもうすでに60年代から頻繁に使われていたわけで、それをどう利用するのか、今更それを使ってどのような音楽を書くのか、というのが作曲家に課せられた重要な問いである。実は、私も自分の作品でこうした方法を採ったことはあった(二面の二十絃のための「つむぎ歌」)が、それとの違いは、今堀作品は絶え間なく大量の音符に埋め尽くされている点にある。「下降気流」はfl,cl,vln,vlcによるカルテットだが、同様の記譜法を用いているという(スコアを見る機会がなかったが、作曲者から聞いた話だとそういうことらしい)。こうした記譜法をとる時、演奏者間のダイレクトなやり取り(相手を聴いて、そこにうまく乗ったり割り込んだりする)が、音楽上極めて重要な要素になってくるのではないかと思う。ただし、今回は指揮者つきで演奏された。おそらく指揮者がきちんと交通整理しないとうまくいかないのだろう。「時の環」では個々の演奏家のソリスティックなパッセージの交代が印象的だったが、「下降気流」では全楽器からひたすら蕩々と大量の音符が流れ続ける。だが、こうした速いパッセージの連続は、聴き手を興奮させはするものの、音楽的には凹凸感が乏しいような印象を受けた。相手の様子を見計らうことによって起きる微妙なタイミングの変化や持続の濃淡はほとんどない。似たような記譜法を採っていても、私とは音楽上の関心は全く違うのかもしれない。これは記譜法の類似性がそのまま美学的関心の類似性をあらわす訳ではないことを示しているのだろうし、そうした相違自体が極めて今日的と言うこともできるかもしれない。

ワークショップのコンサートは、現代音楽ばかりがプログラムされているとはいえ、聴衆には音楽の専門家だけではなく地元の音楽ファンのような人も多い。これは実は非常に貴重なことなのだ。去年参加したオーストリアのKlangspurenでも、あるいはダルムシュタットの夏期講習会のコンサートでも、専門家だけでなく、地元の一般の芸術愛好家が聴きにやってくる。現代音楽のコンサートには作曲家のお友達や専門家だけが集まる傾向が強い、というのは、もしかしたら東京のような大都市だけの現象なのかしら?

作曲ワークショップの枠内のコンサートだけではなく、武生国際音楽祭のファイナルコンサート(高関健指揮桐朋学園オーケストラ、この音楽祭のために組織された市民コーラス)も聴くことができた。
細川俊夫の独奏ピアノと弦楽オケ、打楽器のための「沈黙の海」の日本初演(独奏はThomas Larcher)。昨年オーストリアでの初演とそのNHKでの放送も聴いたが、今回の桐朋学園オケの演奏を聴いて、初演のオケはちゃんと弾いていたのかな?と思うぐらい、細部が非常によく聴き取れた。左右に分割されたオケの呼応関係や、ピアノを呑み込むような高まりは、初演の演奏では良くわからなかったと思う。

このほか、シューベルトの「未完成」とモーツァルトの「レクイエム(モンダー版)」が演奏された。この二人は今回の武生国際音楽祭のテーマ作曲家だったが、最終コンサートに彼らが結局完成することのなかった作品を聴くことになったのは非常に面白かった。これらの作品は非常に有名で、クラシック音楽にそれほど詳しい人で無くても知っていると思う。でも、本当は何を「知っている」のだろうか?モーツァルトの「レクイエム」も、よく聴かれるのはモーツァルト以外の誰かが補完したり、あるいはその補完を削ったりさらに書き加えたりしたものであって、結局の所、この曲の「本当の」姿は誰も知らない。「未完成」交響曲も、結局シューベルトは残りの楽章については断片的なスケッチを残しただけで、その全体像は彼自身も知ることは無かった。「レクイエム」も「未完成」も、完成した姿は我々聴き手が想像するしか無いのだ。
ところで、未完成な作品は聴き手が想像で補わなければならないとして、「完成した作品」の場合は、聴き手は想像して補ってはいけないのだろうか?もし聴き手が自由に想像することが許されるのだとしたら、「完成した」作品は本当に「完成」しているのだろうか?その場合「作品」は結局完成されることはなく、聴き手の想像力の中で常に生成され続けるのである。そう考えると、作曲家に要求されることは根本的に変わってくるのかもしれない。



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