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つむぎ歌

2002/二面の二十箏/「邦楽展IX」(2002年4月8日)にて初演(二十絃箏:久本桂子、丸岡映美)

*この作品は2003年9月10日に再演されます。詳しくはこちら

自分にとって、邦楽器のために作品を書くことには二重の難しさがある。
一つは、自分が本来邦楽器のために書かれた(あるいは伝承されてきた)古典的な作品を十分に知らない、ということ。洋楽器とクラシック音楽の数々のレパートリーには子供の時からずっと慣れ親しんできたので、それなりの蓄積はあるが、それに匹敵するだけの蓄積は、そうすぐにできるものではない。
その一方、邦楽器のために書かれた現代作品(いわゆる現代邦楽)もすでに相当な数にのぼっており、それはそれなりに一つの様式が確立されつつあるようにも見えるけれど、そこで確立された様式の音楽には、個人的にはあまり魅力を感じられない。もっと沢山聴き込んでいけば印象は変わるのだろうけれど、古典を知らないからと言っていわゆる「現代邦楽」の作品をお手本にする気にもなれない。

もちろん、そういう歴史的な経緯のようなものを取り払って、邦楽器を純粋に「発音装置」と見なしてしまう、という選択もあるかもしれないが、これには二つの危険があるように思う。
一つは、完全に「純粋な発音装置」と見なすことは、かなり難しいかほとんど不可能であり、たとえ「純粋な発音装置」として扱っているつもりでも、実際には、すでに自分にとってなじみのある洋楽器のイメージが先行し、それを邦楽器に置き換えるような発想になってしまいがちである、ということである(同様の問題は、なじみのない楽器のために書く際には避けがたく生じてくるが、邦楽器の場合には一層の困難を伴う)。洋楽器でできること、もしくは洋楽器の方がはるかに効果的にできそうなことを、なぜわざわざ邦楽器を使ってやる必要があるのだろうか?(よく蕎麦屋でBGMとして流れている、箏で演奏したクラシックの名曲やヒット曲の俗悪さを思い出してほしい。)
もう一つは、楽器の構造は、その楽器でどのような音楽が今まで演奏されてきたのか、といった歴史性によって制約されているが、この制約は決して無視するわけには行かないだろう、ということである。楽器は(洋楽器にしても同じことが言えるが)伝統的な作品を演奏するのに最も適した構造を持っている。もしそうした特性を活かそうとするなら、結果として出てくる音響はかなり伝統的な音楽に近いものになる可能性がある。この危険は、あえて無理な奏法(例えばいわゆる特殊奏法)を乱用したからといって回避されるものではない。例えば、Lachenmannに見られるような特殊奏法の多用の背景には、伝統的な響きに徹底的に馴染んだ聴き手と作曲者が存在する。つまり特殊奏法が、聴き馴染んだ響きと徹底的に異なることが、特殊奏法の存在に意義を与えるのである。もし仮に邦楽器の特殊奏法を乱用したとしても、作曲家自身が本来の特殊奏法に十分に馴染んでいないならば、それは表面的な効果に過ぎないし、特殊奏法を用いた「現代音楽」の表層的な模倣におわるだろう。もちろん、特殊奏法は常に伝統的な奏法の否定としてしか機能しないというわけではないし、Lachenmann的な発想から、逆に特殊奏法を使わないことだってあり得る。しかし、我々は本当に歴史から「自由に」なれるのだろうか?
突き詰めていえば、邦楽器のための作品を書くことの困難さとは、邦楽器をとおしてあらわれる、邦楽の歴史そのものやそれを支えてきた音楽の聴き方、感じ方とどうつきあうのか、ということなのだ。邦楽の何を、どのように扱うのか、これが邦楽器を使って曲を書く上での根本的な課題なのである。

とりあえず、邦楽の古典のCDを繰り返し聴いたり、伝統的な譜面を眺めたり(読み方はよくわからないが)しているうちに、邦楽の演奏家のリズムの把握の仕方は、西洋音楽のそれとは根本的に異なるのではないかと思いはじめた。いわゆるクラシック音楽の延長上にある多くの音楽では、演奏家は音楽そのものの中には存在しない(事の多い)等間隔な拍なり拍子なりを想定して、それにあわせて音楽を作ってゆく。合奏する時も、基本的にはお互いの関係は外側に想定された拍や拍子を介して成り立っているに過ぎない(アマチュア音楽家がメトロノームにあわせて合奏の練習をすることは良くあるが、これにはそうした西洋音楽の基本的なリズム観がよくあらわれている)。リズムが複雑になればなるほど、互いの存在はますます間接的なものになってゆく。また、編成が大きくなるにつれ、互いの音を聴くよりも、架空の拍や指揮者にあわせる方が良い、ということになる。それに対して、邦楽の演奏家が合奏をする時に、あらかじめ「客観的な」拍を想定することはないように見える。邦楽の場合、互いの気配や動作を見計らい、合わせてゆく(のだと思う)。二人の出す音、あるいは出す行為の背後に時間のグリッドは存在せず、一つ一つの音、あるいはごく短いパッセージの中から音楽がつむぎだされてゆく。こうしたリズムや合奏のとらえかたをする演奏家に、自分の音響イメージを正確に再現させるためだといって、ニュー・コンプレキシティーの作曲家のような複雑な拍分割を要するリズムをソルフェージュさせようとするのは、あまり意味のあることではないだろう。
邦楽に関するこのような考え方には誤解があるのかもしれないけれど、この思いつきが「つむぎ歌」を書くための手がかりとなった。

この曲では大まかなテンポの指定はあるものの、私の作品には珍しく、多くの部分でプロポーショナル・ノーテーションが導入されている。また、演奏にあたっては、二人の演奏家は互いの出す音のタイミングに常に注意をはらい続けなければならないような仕掛けになっている。例えば、二人が同時に発音するように、あるいはどちらかが一瞬遅れて入るように、あるいは片方が自由に弾く間にもう片方がそれに合わせて音を入れてゆく、といった具合に、二人の演奏家の音やパッセージの入りのタイミングが、独立な拍に依存していられないような箇所が殆どを占めている。言ってみれば二人の演奏家は外にある時間の流れを介してではなく、互いの音をじかに聴きながら、ひとつの糸をつむいでゆく。題名はこのイメージから連想されたものだ。こうした記譜法や演奏の方法は必ずしも新しいわけではなく、むしろ60年代頃から使い古されているわけで、そこからどういう音楽が生まれてくるのか、ということが何より問題になるだろう。

さて、実際にこの作品が演奏されて気付いたのは、邦楽の演奏家とはいえ、拍を仮定してそれに合わせて演奏する、というやり方はもう十分身についた、ごくあたりまえのことだった、ということだ。そもそも多くの邦楽の演奏家(とりわけ現代音楽をてがける演奏家)は、すでに西洋楽器も充分習得していて、逆に僕が「つむぎ歌」でとった記譜法(かなり矢印の交錯する譜面になった)を読むのはかなり面倒であり、結局プロポーショナル・ノーテーションを使っていても、便宜的にリズムを書き込んでしまった方が「やりやすい」と感じるらしい。やれやれ、当てが外れてしまったようだ。

そんなわけで、この曲の最初のアイディアはやや勇み足だったのかもしれないが、ただ同時に思うのは、この曲を書く上で考えたこと(西洋音楽と邦楽のリズムのとらえ方の違い、邦楽の伝統を全く無視してしまうことの危険、など)は、同様に演奏家にとっても問題になりうるだろうということだ。邦楽の演奏家が西洋的な記譜やソルフェージュに慣れていることは、西洋音楽の訓練を受けてきた作曲家にとっては有利なことのように見える。作曲家は演奏家とのギャップをあまり気にすること無しに自分の使い慣れた方法で譜面を書くことができるからだ。その意味で、現代邦楽は、僕が考えていた以上に「西洋音楽」だった、というわけだ。しかし逆にいえば、現代邦楽は、伝統的な邦楽にとって何なのか、という問題もそこには存在するのではないだろうか。西洋音楽流の譜面を、西洋音楽のようにソルフェージュして、西洋音楽のように感じつつ演奏する。こうして演奏された現代の「邦楽」と、それとは全く違う意識で演奏する伝統邦楽とは、邦楽の演奏家の中でどのような関係にあるのだろうか?伝統楽器を使って作曲する作曲家は時折「あなたの作品と伝統的な音楽とはどのような関係があるのか」と質問されることがある。多くの場合、作曲家には明確な答えはない。しかし同じことは演奏家の側にも言えることなのかもしれない。その意味で、邦楽器を使った「新しい」音楽のあり方を探究する上で、演奏家と作曲家は、実は同じ問題を共有しているのではないだろうか。
(8 Aug. 2003)


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