田中吉史のページ/作品ノート


Schwaz Etude

2002-2003/tape/CD "TEMPUS NOVUM XIII on the Disc"のために製作

*上記CDはこちらから注文できます


私はあることが思い出せない。正午になり、教会の鐘が鳴りはじめた時のことだっただろうか?いや、ちがう。ギャラリーである美術家の作品を鑑賞したこと?そうだった気もするがたぶんそうではない。それともリハーサルのときのこと?あるいは窓をあけて外の空気にあたっていた時のことだろうか?そういえば、冷たい風の中、学校帰りの小学生達が指笛を練習しながら通っていったのだった。ベンチではトルコ人たちがおしゃべりに興じていた。遠くで犬が吠えていた。いろいろなことが次々思い出されてくるが、そうこうするうちに最初に何を思い出さなければいけなかったのか分からなくなる。

追記 Barbara Denzl、Stefan Hussong、Swarowski Musik Wattensの音楽家達とFranz Schiefererの各氏、Klangspuren Schwazの皆さんに感謝します。

(CD "TEMPUS NOVUM XIII on the Disc" 解説より)


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Schwaz Etudeは、2002年の9月、オーストリア・チロル地方のシュヴァーツという町に滞在した時に録音した諸々の環境音を中心に構成したものである。これらの音を録音した時に、具体的にどのような作品にするかといったアイディアは全くなかった。ちょうど観光客が写真をとるのと似たような具合に、街角や宿の窓辺でマイクを構えたのだった。
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全くアイディアがなかったとは言え、これらの音を使ってなんらかの作品を作ろうとは漠然と考えていた。その時何となく念頭にあったのは、Luc Ferrariの環境音を用いた作品、例えばPresque Rienや、L'escalier des aveugle、Madame de Shanghaiなどの、いわば旅行記ものだった。結果としてSchwaz Etudeはこれらの作品と多くの点で共通した特徴を持つようになったので、間接的にはFerrariへの一種のオマージュとも言えるかもしれない。
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どんな曲にしようか考えながら、シュヴァーツで録音した数時間分の音をくり返し聴いた。何度も聴いていると、前には気付かなかった様々な音が聴こえてきたり、あるいはまるですべての音が最初からそのように設計されていたかのように感じられてきたりする。また、試しにアンプリチュードを思いきりあげてみると、なんでもない環境音の中に、それまでは全く聴こえなかった様々な音(例えば微かな虫の声、遠くで犬が吠えている音、近所の家族の談笑など)が含まれていることに気がつく。くり返し聴くことで、あるいは注意深く聴くことで、無限の細部が次々と見出されてくる。
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そんなことに気がついてから、改めてFerrariのPresque rienを聴きなおして思ったのは、この作品がいかに音楽的に構成されているか、ということだった。音楽的に、というのはやや語弊があるかもしれない。普通に環境音を聞き流している時、なにか目立った出来事がなければそのうち飽きてしまう。Presque rienを聴いていると、様々な出来事が絶妙に計算されて配置されており、何となく聴いているうちに飽きてしまう、ということはないのだ。逆にいえば、すべてが余りにもよく準備されていて、聴きながらさらに何かを発見してゆくような側面はあまりない。
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聴きながら何かを発見してゆく、ということは何も新しいことではなくて、すでにCageによって指摘されていたことでもある。ただ、すべての環境音がたとえそれ自体で美しくても、単に録音したままの音を提示することには、個人的には抵抗を感じる。なぜそう感じるのか、今はうまく説明することができない。これは突き詰めていけば、何のために作曲するのか、「音はそのままで音楽なのに、なぜわざわざ作曲をするのか?」というかなり根本的な問題になってしまうからでもある。
それはともかく、それ自体完結した面白さを持つ環境音(の録音)に対して「作曲する」という行為を行う場合、もうすこし厳密な言い方をすれば、それらの響きをなんらかの形で操作し、別のもの(「作品」)にしてゆくためには、どのようにして個々の環境音(「素材」)を繋いでゆくのか、という問題が出てくる。
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何の方法論も見つからなかったが、とりあえず繰り返し聴くうちに、思いついたことを試してみた。それは、繰り返し録音を聴くうちに気付いたある特徴的な出来事に注目して、それをきっかけにして切断したり、別の録音を繋いだり、あるいは重ねたりしてゆく、というやり方だった。言ってみれば、聴きながら発見した情報が録音と録音を繋ぐ手がかりとなるのである。手がかりになりうるような情報は、それぞれの録音によって異なる。例えば、川べりで録音した音に、近くを通りかかる自動車の音が入っていて、ある瞬間車の音以外何も聞こえなくなる箇所がある。そこで、この車の音を手がかりに、街角の音で同様に自動車の通過音が入っている箇所を接続する。あるいは、通りがかりの子供たちが指笛を練習している箇所では、指笛の音を強調するために、指笛の音をいくつもコピーしてずらして重ねて強調したり、あるいは、遠くのヘリコプターの音にアコーディオンの低音を重ねて「オーケストレーション」したりした。その意味では、ここでいう「作曲」とは、録音の中で作曲者が発見したものを、さらに解釈するということかもしれない。そして、部分と部分の連結は、論理によってというよりも、ごく小さな手がかりによっておこる記憶の自由な想起によって行われる。
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このような「類似した」素材同士を繋いでゆくやり方は、サンプリング音を用いて作られた作品においてはあまり人気がないかもしれない。すでによく指摘されることだが、録音された音は、もとの文脈から切り離されて、普通ならば考えられないほど高速に提示したり、異質で意外な組み合わせを作ることができ、それによって全く異なった新しい側面があらわれてゆく。それに対して、Schwaz Etudeで意識されたやり方は、たとえ最初は気付かなかった特徴に注目しているとはいえ、異質なものの組み合わせによってある種衝撃的な効果を狙っているわけではない。この曲を構想する時、録音された音を細かく刻んで互いにぶつけてゆくようなやり方は全く念頭になかった。そう言うやり方で作られた作品はもうすでに沢山あり、常套的な語り口にもなっている。今わざわざ自分がやらなくても、この方法をつかって自分よりもっとましなものを作る人はいくらでもいるに違いない。
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この作品の素材のすべては、シュヴァーツ滞在中の経験と結びついている。環境音はすべてシュヴァーツ市内の数カ所で録音されたものである。比較的長時間あらわれる女性の話し声は、Stadtgaleryの学芸員Barbada Denzl氏が、この時行われていた美術家の島袋章浩の個展で解説してくれた時のものである。また、ブラスバンドの音は、シュヴァーツ滞在中にあった私の作品「吹奏楽のための協奏曲」の初演のリハーサル(Franz Schieferer指揮Swarowski Musik Wattens)の録音から取られた。シュヴァーツで録音されなかった唯一の例外はアコーディオンの音である。これは2002年の4月に東京で、Stefan Hussongと、彼のために作曲中だった「Luftspiel」の打ち合わせをした時の録音だ(曲の後半で出てくる彼の声は、作品のスケッチに対する具体的なアドバイスである)。実はシュヴァーツでもStefanと打ち合わせをしたのだが、その時は録音をしなかったので、東京での録音で代用したのだった。
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Schwaz Etudeを作りながら、これらの音を収拾した時の視覚的な情景を次々と思い出した。そうした視覚的な記憶は、音を編集してゆく時に、少なからず影響を与えているだろう。だから、私と記憶をいっさい共有しない聴き手がこの作品がどんなふうに聴くのか、正直なところ見当がつかない。


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